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ゲルギエフによるショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』(2012年)

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ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団。 2012年6月の複数のライブ録音を編集したもの。 ゲルギエフは、2001年にこの曲を正規録音していた。このときはキーロフ歌劇場管弦楽団(現マリインスキー管弦楽団)とロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団の混成オーケストラを指揮していた。 ゲルギエフとマリインスキー管弦楽団との関係は、1988年に芸術監督になって以来続いている。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* この演奏の特徴を言葉にすると、2001年盤と重なるものが多い。 響きの量感は豊かで、安定した足取りの一方、各パートの音量は抑えめで、響きの色合いや歌い回しのニュアンスを細やかに浮き上がらせていく。 楽曲の大きさと細やかな造作の両方を過不足なく描き出すアプローチ。 でも、共通するのはこの辺りまで。ここから先はけっこう違っている。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 2001年盤の方が端整で締まりがあるし、色彩感が豊か(録音の質のせいもありそう)。楽曲の音響造形物として面白さを感じさせる仕上がり。 一方2012年盤には、色彩美めいたものはあまり感じられない。 そのかわり、ディテールの表情付けは執拗なまでに細やかで、陰影が豊かになっている。 そして、それらを明瞭に聴かせるために、余裕あるテンポがとられている。 結果として、演奏時間は3分42秒も長くなっている(ただし、第4楽章は1分短くなっている)。 シリアスな空気が増したことで、よりこの曲らしい相貌になったとも言えるけれど、この味は、楽譜から抽出されたというより、ゲルギエフその人の中から溢れ出てきたものでしょう。 ただし、計算にもとづく演出というより、もっと単純に、自分の中から出てくるものにブレーキをかけていない、みたいな。 だから、個性は強いけど、どこまでも自然に聴こえる。 指揮者としての高みにある演奏だけど、爛熟という言葉を連想させられる。

ショルティによるマーラー交響曲第8番『千人の交響曲』

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ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団、ウィーン楽友協会合唱団他。 1971年のスタジオ録音。 ショルティ(1912年生、1997年没)は、ハンガリー出身の指揮者。1969~1991年の長期にわたり、シカゴ交響楽団の音楽監督を務めた。 ショルティは、この録音をもって交響曲全集をいったん完成させたが、コンセルトヘボウ管弦楽団及びロンドン交響楽団と録音した曲を、のちにシカゴ交響楽団と再録音している。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 現代でも気軽に商業録音できる曲ではないだろうけれど、音源の数はかなり多くなってる。特に録音のクォリティが重要な曲だけに、今さらこの音源を聴く価値はあるのだろうか? 聴いてみると、その価値は十分以上にありそう。 まず録音のクォリティだけど、巨大な編成の演奏陣をやや距離を置いて俯瞰するような録り方なので、音の洪水が押し寄せる感じではないけれど、サウンドイメージは明解で、広がりとか奥行きも伝わってくる(立派なリスニング環境で再生すれば、違った風に聴こえるかもですが)。 ただし、場面によっては演奏空間がいささか人工的に感じられる。響きをクリアに保つために、手を加えている感じ。DECCAの録音ではありがちだけど。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 演奏の中で、この音源のあきらかな強みと思われるのが、独唱陣の質の高さ。 独唱者数が多くかつ求められるレベルが高いために、全員に満足することはまれ。個人的に、この曲の演奏を聴いて感じる不満の半分以上は、独唱者に対する違和感だったりする。 その点で、この音源は満足度が高い。声の質は様々だが、いずれも透明感があって、伸びやかな美声。 管弦楽ともよくシンクロしている。管弦楽も、独唱陣の歌唱も、透明で清潔だけど、強弱のメリハリは強め。そういうショルティ様式が徹底されている。 曲が曲だけに、「オヤッ!?」という部分が皆無ではないけれど、素晴らしい仕上がりだと思う。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* わたしの記憶では、ショルティは、1970年代に入ると、50~60年代のような過激なダイナミズムを控えるようになった。 この音源も例外ではない。力強い場面では歯切れよく畳みかけるけれど、神経に障るような音はシャットアウトされている。 結果として、透明なサウンド、機能美、端正な造形とい...