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1月, 2016の投稿を表示しています

ケーゲルによる、ブルックナーの交響曲第5番

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ライプツィヒ放送交響楽団との、1977年ライブ録音。 曲調の変化に合わせてテンポは柔軟に変えられるけれど、全体として、もったいぶらず、推進力を感じさせる。 サウンドは、重厚感や壮大さより、明晰さが重視され、ときに繊細さが際立つ。 * * * * * こういうやり方なので、終楽章あたりは、他の演奏と比べると、快速かつ軽量級となる。 この終楽章は、凝った仕組みだし、細部に目をやると変化に富んでいる。そのあたりを強調(?)するような演奏で聴くと、山あり谷ありの大掛かりなドラマのように聴こえなくもない。 ただ、この演奏のように、高い推進力でもって演奏されると、一定の調子で突き進んでいく印象。多少、あっけなく感じられる。 だからと言って、ケーゲルのようなやり方が劣っているとは、一概には言えない。ケーゲルのやり方だと、終楽章のウェイトが軽く感じられて、この楽章の聴き応えに限ると、評価が分かれるかもしれない。でも、全四楽章のバランスという意味では、この方が良いと思う。 両端楽章を重厚壮大にやりすぎると、第二楽章のおさまりが微妙になってしまう。この楽章は、ブルックナーの書いた緩徐楽章の中で、目立って簡潔に作られているから。 第二楽章が不出来なわけではなく、全四楽章が適切なバランスで作曲されているとするならば、ケーゲルのような演奏設計の方が、ブルックナーの意図に近いような気がする。 ただ、どのやり方を魅力的と感じるかは、聴き手の自由だけど。 * * * * * 楽曲の繊細な美しさを、クールな質感で描き出した第二楽章が印象的。 高音域優位の、透明度の高い響きで、息の長い旋律を次々と流れるように美しく歌い上げていく。演奏者の美意識を感じさせる。 オーケストラの響きが心地よくて、ケーゲルの美意識を体現できている感じ。 第三楽章は、推進力に溢れながらも、曲調の変化に機敏に反応できていて、小気味がいい。技巧的な管弦楽法を明解にしながら、変化の妙で楽しませてくれる。 オーケストラの上手さと柔軟な表現力に感心。 * * * * * 両端楽章は、他の演奏と比べたときに、足取りの軽さとか響きの薄さがいっそう際立つような表現。好き嫌いは分かれそうな気がするけれど、上のとおり、作品解釈としては納得できる。 第一楽章は、もとも...

カラヤンとウィーン・フィルによる、ドヴォルザークの交響曲第8番

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1961年のセッション録音。  カラヤンは、存命中絶大な人気を誇っていたが、わたしには独特の演奏様式のように感じられた。 * * * * * 造形はいたってキッチリとしている。音楽の息遣いを感じさせないくらい、カッチリとしている。 フレーズのつなぎ方なんかは、いたってシステマティック。間とか呼吸感のようなものを差し挟まない。 一方、それぞれのフレーズの流し方には、曲線的なつながり方を徹底させている。 そのために、カッチリとした造形をやっているのに、機械的な、鋭角的な、硬質な感触は皆無。 総合的には、音楽の流れは静的だけど、部分部分は多彩に色づく感じ。 * * * * * 艶やかで、甘口な響き。耳障りであったり、刺激的であるような響きは抑え込まれている。 ウィーン・フィルの持ち味のせいか、ヴァイオリンの甘美さ、木管の繊細さが際立つ。 そして、中低音以下を厚く響かせる、下膨れなバランスで、厚みとスケール感を生み出している。 厚みは十分だけど、ゴリゴリとした響きはないから、演奏全体の品位が損なわれることはない。 繊細な木管と分厚い低弦とが重なり合う場面では、室内楽的な意味でのアンサンブルの親密さ、みたいな感触はない。とは言え、響きのバランスはコントロールされていて、互いが邪魔をしあうことはない。 木管など内声部が前に出る場面では音量控えめで繊細に、盛り上がる場面では厚く響くので、サウンドの強弱の幅は広い。 それを活かしたダイナミックな演奏が展開されている。 もっとも、造形感は静的で、呼吸感を感じさせない。よって、音楽が盛り上がる場面で、感情的な高揚や躍動を連想させない。 素っ気なくも、機械的でもないけれど、あくまでも音響の物理的な高まりに止まっている。 * * * * * 考え抜かれ、磨き上げられたような演奏様式。 ただし、こういう取り合わせは、わたしの感性にはスムーズに入ってこない。それで、人工的というか、ときにはキメラ的に聴こえてしまう。 他にも違和感を覚える人気演奏家は複数いるから、そんなことで騒ぐことは無さそうだけど、帝王と称されるくらいに支持を集めた指揮者だけに、感性のズレが気になってしまう。 カラヤンがどうのと言うより、カラヤンを支持していた人たちと私自身の感性のズレと...

メルヴィン・タンによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番

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フォルテピアノはメルヴィン・タン、管弦楽はロジャー・ノリントン指揮のロンドン・クラシカル・プレイヤー。 1988年のセッション録音。  モーツァルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を聴くときは、独奏楽器とオーケストラとの音量のバランスが気になってしまう。 とかくフォルテピアノが管弦楽に埋もれがち。これが本来のバランスだとしても、個人的にはしっくりしない。 わたしがオリジナル楽器の演奏を聴く動機のひとつは、個々の音を明瞭に聞き取りたいということ。 この音源のバランスは、まずまずいい感じ。 * * * * * タンは、タッチの軽いフォルテピアノの特性を活かす方向の演奏。音楽の所作は軽快で、音はコロコロと小気味良く連なっていく。 音の一つ一つに硬さがなくて、どこか木質な響き。フォルテピアノだからこんな風に響くということではなく、タン独自の質感を感じる。 弾き方だけではなくて、使用楽器の調整なんかも関係しているのかもしれない。 軽量級で響きの柔らかいピアノだけど、足取りには小気味良さとキレがある。聴き手を圧するものはないけれど、ほどよい緊張感に貫かれている。 第一楽章のカデンツァあたりは、気合のノリが感じられたりするし。 この楽器の音量の乏しさはどうしようもないけれど、音楽が痩せて聴こえないように、磨かれた演奏様式。 オリジナル楽器によるベートーヴェンの演奏としては、わりと好きな方。 * * * * * バッハのチェンバロ曲を聴いていると、作曲家はチェンバロという楽器と円満にかかわっているように聴こえる。その弱点を受け入れた上で、チェンバロの表現力を徹底的に引き出しているような。 一方、ベートーヴェンは、フォルテピアノという楽器と円満にかかわるというより、その限界を超えていこうしているように聴こえる。 もちろん、フォルテピアノの表現能力の範囲内で円満にまとめられた曲はあるのだけれど。 そのせいか、ベートーヴェンの時代の楽器を使ったからといって、そこに作曲家の楽想がすっかり映し出されていると、信じられないことが多々ある。必ずしも、演奏者の責任ではないのだけれど。 だからといって、現代ピアノによる演奏にも、別の種類の、より大きな違和感を覚えてしまう。 それで、フォルテピアノによる演...