メルヴィン・タンによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番

1988年のセッション録音。
モーツァルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を聴くときは、独奏楽器とオーケストラとの音量のバランスが気になってしまう。
とかくフォルテピアノが管弦楽に埋もれがち。これが本来のバランスだとしても、個人的にはしっくりしない。
わたしがオリジナル楽器の演奏を聴く動機のひとつは、個々の音を明瞭に聞き取りたいということ。
この音源のバランスは、まずまずいい感じ。
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タンは、タッチの軽いフォルテピアノの特性を活かす方向の演奏。音楽の所作は軽快で、音はコロコロと小気味良く連なっていく。
音の一つ一つに硬さがなくて、どこか木質な響き。フォルテピアノだからこんな風に響くということではなく、タン独自の質感を感じる。
弾き方だけではなくて、使用楽器の調整なんかも関係しているのかもしれない。
軽量級で響きの柔らかいピアノだけど、足取りには小気味良さとキレがある。聴き手を圧するものはないけれど、ほどよい緊張感に貫かれている。
第一楽章のカデンツァあたりは、気合のノリが感じられたりするし。
この楽器の音量の乏しさはどうしようもないけれど、音楽が痩せて聴こえないように、磨かれた演奏様式。
オリジナル楽器によるベートーヴェンの演奏としては、わりと好きな方。
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バッハのチェンバロ曲を聴いていると、作曲家はチェンバロという楽器と円満にかかわっているように聴こえる。その弱点を受け入れた上で、チェンバロの表現力を徹底的に引き出しているような。
一方、ベートーヴェンは、フォルテピアノという楽器と円満にかかわるというより、その限界を超えていこうしているように聴こえる。
もちろん、フォルテピアノの表現能力の範囲内で円満にまとめられた曲はあるのだけれど。
そのせいか、ベートーヴェンの時代の楽器を使ったからといって、そこに作曲家の楽想がすっかり映し出されていると、信じられないことが多々ある。必ずしも、演奏者の責任ではないのだけれど。
だからといって、現代ピアノによる演奏にも、別の種類の、より大きな違和感を覚えてしまう。
それで、フォルテピアノによる演奏を聴くことが多いのだけど、上のようなフラストレーションを覚えてしまう。
タンの演奏だって、例外とは言えないのだけど、抒情的な味わいがあるこの協奏曲あたりは、聴きやすい。
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ノリントンによる伴奏は、独奏を立てながら、オーケストラが前面に出る場面では、ビシッと決めてくる。洗練されているし、充実感もある。立派な伴奏。
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