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wattOS R9をThinkPad X201にインストール

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これは備忘録的な記事。 ThinkPad X201の高速化、省電力化のために、Linux化。 もとのOSはWindows7(64bit)。 メモリ増設やSSD化でも、高速化できるのだろうけど、あちこちガタがきかかっている、外用のPCなので、いまさら金をかけたくない。使いつぶすつもり。 Linux化のデメリットは、いくつかある。 その第一は、インストールして使ってみないと、PCの機能のどのくらいが活かせるのかわからないところ。ThinkPadはubuntu系とは親和性が高いらしいので、画面表示、キー入力などの基本機能は大丈夫だろう。問題は無線LAN。ここまでできればOK。 好きな人は、いろんな軽量Linuxをインストールして、比較して選ぶのだろう。わたしの場合、よりよいものを選びたいというより、とにかく早くX201を使えるようにしたいので、ネットで情報収集し、ubuntu派生の軽量OS、LubuntuとwattOSを候補に絞り込んだ。 過去に使用経験があるLinuxはPUPPYだけ。だから、PUPPYも候補には加えていた。PUPPYは、LubuntuとwattOSよりさらに軽量だし、Frugal installという他には無い武器がある。 ただ、ubuntu派生のものに比べると、アプリケーションの選択肢が狭くなるし、ネットで手に入る情報量はubuntu系に劣る。Linuxにするだけで、Windowsと比べて選択肢や情報量が落ちるので、それ以上は落としたくない。 ただし、技術のある人なら、ubuntuで動くアプリケーションを、PUPPYでも動かせるようにできるらしい。わたしには、そこまでの技術はないし、そっち方面への向学心も無い。 最終的にwattOSを導入。 実は、こちらの希望としては、Lubuntuを導入したかった。なぜなら、wattOSに関するネットでの情報は極端に少なかったから。 しかし、両方をインストールしたときに、Lubuntuは失敗し、wattOSはうまくいった。Lubuntuの失敗の原因は、タイミングの悪さとか(先方のサーバーの不調か混雑とか?)かもしれない。でも、翌日にやり直すのは面倒なので、そのままwattOSを採用。 LubuntuもwattOSも、ubuntuの派生でデスクトップ環境にLXDEを採用している(ち...

小澤、ノーマンの、R.シュトラウス楽劇『サロメ』

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1990年のセッション録音。管弦楽は、シュターツカペレ・ドレスデン。  この音源、頭からの3分の2くらいは、聴いていて気持ちがノッていかない。 ハズレかな・・・と決め付けかけていたら、終盤のサロメの一人語り~幕切れは、のめりこんでしまった。 べつに、前半は演奏が不調で、後半盛り返した、ということではないだろう。 * * * * * 極彩色の官能性、みたいものがこの楽劇の持ち味だとしたら、小澤の編み出す音楽は、方向性が違っている。 ヒロインのサロメは、内に狂気を宿した少女という設定のようだけど、ノーマンの歌声や歌唱は、いくらなんでもかけ離れている。 この楽劇は、ヨカナーンの首が差し出されるあたりまでは物語が進行し、その後サロメが狂気を撒き散らしてショッキングに幕切れる。 物語が進行中は、官能性を微塵も感じさせない小澤らの管弦楽と、ノーマンの女丈夫なサロメ像のおかげで、入っていけなかった。 演奏としてのすごさは納得できるだけれど、気持ちがついていかない感じ。 この楽劇のもっとも異色な解釈のひとつというか、異色というより、単に間違った方向を向いているだけかもしれない。 * * * * * ところが、物語が止まって、サロメの長い一人語りに入ると、こちらの感じ方が変わる。 物語の進行中は、舞台で繰り広げられる物語と、音楽のタッチとのマッチングを意識してしまう。 しかし、モノローグに入ると、物語の設定とか背景より、歌詞に歌われる抽象的な世界が前面に出てくる。 そうなると、音楽のタッチより、演奏者の表現力そのものが感銘を左右し始める。あくまでも、わたしの場合は・・・ ノーマンの力強くて彫りの深い歌唱はもちろん聴き応えがある。「こんなのサロメじゃない」という違和感を、力でねじ伏せる大きな表現力。 そして、小澤とシュターツカペレ・ドレスデンが生み出す、迫真のアンサンブルにしびれた。 * * * * * すべての音をクリアに浮き上がらせながら、かつダイナミックに音楽を展開させる。 やや余裕を感じさせるテンポで、畳み掛けることはしない。緊張感がむき出しになることは無いけれど、緩むことは無く、雄弁に迫ってくる。 音楽が緊迫してくると、ダイナミックに切り込んでくるけれど、響きは濁らないし、アンサンブル...

ヴァントの、ブルックナー交響曲第8番(1990年東京ライブ)

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1990年東京でのライヴ録音。管弦楽は北ドイツ放送交響楽団。 ヴァントのブルックナーは、生前はずいぶんともてはやされていたように記憶する。 もしかしたら、今でももてはやされているかもしれない。 わたしにとっては、ヴァントは、感心するけれど、感動できないタイプの指揮者だった。 久しぶりにヴァントのブルックナー演奏を聴いて、そうした印象自体は変わらなかったけれど、大きな感銘を受けた。 * * * * * まあ、存命中最高レベルの評価を得ていた人だから、感心するのは当然だろう。一方、感動というのは、個人の感受性のあり方によるところが大きいので、基準は厳しくなる。 ただ、個人の感受性とか嗜好とは別のところで、ヴァントには表現力の狭さを感じる。わたしが思う偉大な指揮者の基準からすると、使える絵の具の色数が少ない。 ヴァントに関して漠然と感じているのは、基本的に気品があって清潔な質の音楽をやる人だ、ということ。狙ってやっているのではなく、にじみ出てきたものかもしれないけれど。 素朴だとか、粗野とか、野卑とか、ドロドロとか、エロイとか、そういうタイプの表現は苦手というか、そもそも彼の辞書には載ってなさそう。 優れた演奏家なら、自分の持ち味を確立しているのは当然だろう。とは言え、ヴァントの場合、それにしても表現の幅が狭いような気がする。 たとえば、この演奏において、ブルックナーの第八交響曲の持ち味の、どのくらいを表出できているのだろうか? * * * * * この演奏を聴いていると、もともとのキャパシティは大きくないかもしれないけれど、自分の音楽をとことん突き詰めて、独自の演奏様式を確立した指揮者であることは、思い知らされる。 あくまでも清潔な質の音楽の中で、繊細さと巨大さ、明解さと豊かさ、キレ味と伸びやかな歌等々の要素を、これ以上は無理なんじゃないかと思えるスケールで並び立たせている。 頑固オヤジ風だけど、聴くものを寄せ付けないような音楽ではない。硬派一辺倒ではない。伸びやかで端整なフレージング、豊かな響きなど、十分に心地よい。