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ubuntuを高音質化 ~ あれから4ヵ月

余ったThinkPad T530i(レノボのノートパソコン)に、KLUEを入れて音楽再生専用パソコン(ただし、ウェブ閲覧くらいはやる)として利用していた。 初めは満足して使っていたが、だんだん欲が出てきて、今年の4月からubuntuをベースに、高音質化の取り組みをやっていた。 始めてから2ヵ月くらいは熱心にあれこれ手を入れていたが、その後はもっぱら聴いてばかりになっている。 少し飽きたのもあるが、(自分の好み基準で)KLUEより良い音になったので、満足したのもある。 さっきKLUEの「最高音質」と聴き比べたけど、自家製のほうがいわゆるベールがはがれたようなサウンド。 その分響きが豊かになり、空間が広がったような気がする。 ヘッドホンでも、ニアフィールドリスニングでも、同じような印象。 実は、自分の好みとしては、もう少しだけ落ち着いた色調にしたい。 微調整なので、Pulseaudioのdaemon.confあたりで対処できないかと思っている。 ただ、まだCPUとかメモリとかI/Oとかの設定に手を入れているところなので、そこまでにはもう少し段階を踏む必要がありそう。 自分ちのサウンドがKLUEより上だなどと、声高にアピールするつもりはない。自分ちのサウンドを、第三者に聴いてもらう手段はないわけだし。 ただ、既製品に物足りなさを感じている人で、多少の好奇心と心得があるなら、お勧めしたいとは思う。 ことに、最近のKLUEは音質向上と引き換えに、さらに使いにくくなっているようなので。 【自家製は無理がきく】 ちょっと前に、勉強させてもらおうと思って、KLUEのスクリプトの中身を読んだ。残念なことに、理解できたのは体感で2割くらいだった。 わたしのスキルはその程度。 ただ、こちらは、不特定多数向けのOSを開発しているわけではない。 やっていることは、自分のためだけに、ubuntuのパラメータを設定変更しているだけ。 そのために不便になっても、自分が納得できれば問題ない。 また、他人のことはおかまいなしの、自分の環境に特化した設定ができる。 ubuntuやシステムについてのスキルが低くても、ときどき作業するだけでも、それなりのサウンドを手に入れることは可能だった。 【PCオーディオでも、音の基準は人それぞれ】 ...

アンドリス・ネルソンスによるブルックナー交響曲第4番『ロマンティック』

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好感度 ■ ■ ■■■ アンドリス・ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。 2017年のライブ録音。 ワーグナーの『ローエングリン』第1幕への前奏曲も併録。 アンドリス・ネルソンスは、1978年ラトビア出身の指揮者。 この録音時点で30代終盤。 2017年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長(カペルマイスター)に就任している。 :::::::::: ゆとりのあるテンポ。特に叙情的な場面ではテンポを緩めて入念に磨く。 サウンドはコンサートホールに広々と展開されるけれど、厚みや量感は控えめ。むしろ繊細感が際立つ。ときに神経質なくらい。 盛り上がる場面では、それなりに迫力を増すけれど、響きの質感を優先した抑制的な表現が目立つ。 ややくすんだ色調の響きだけど、響が均質で鮮明。この長い伝統誇るオーケストラから連想それるローカルな色調とは違う。 ネルソンスは、自分の響きを持っている指揮者で、このオーケストラからも、彼らしい質感のサウンドを引き出している。 抜きん出た耳の良さと統率力を感じさせる。 逆に言うと、若き才能と名門オーケストラとの出会いがもたらす新鮮な驚き、みたいな要素はない。 ネルソンスの流儀が支配的。 :::::::::: 落ち着いたペースとか、広がりを感じさせるサウンドとかは、ブルックナーの作風に合っているかもしれない。 ただし、響の厚みの乏しさとか、際立つ繊細感をどう聴くかで、評価が分かれそう。 それと、全曲を、緊張感とか入念さに由来する一定のトーンが貫いていて、生き生きとした多彩さみたいなものは乏しい。

グリュミオーによるブルッフのヴァイオリン協奏曲(1962年)

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好感度 ■ ■■■■ アルテュール・グリュミオーのヴァイオリン独奏、ベルナルド・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団。 1962年のセッション録音。 グリュミオーは1921年生1986年没のベルギーのヴァイオリニスト。 この録音の頃は40歳過ぎ。 この曲の正規録音は3つあるようだ。 これ以外は1956年録音(レスコヴィチ指揮ウィーン交響楽団)と1973年録音(ワルベルク指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)。 一方のハイティンクは、1961年に同オーケストラの首席指揮者に就任したばかり(1964年まではヨッフムが補佐した)。 :::::::::: 第一楽章は、あちこちで見栄を切らなければならないけれど、グリュミオーは線の細い美音を保ったまま、もっぱら引き締まった息遣いで、緊張感を演出する。 気合は感じられるけれど、なよっとした質感が残っていて、迫ってくるほどではない。 それが印象を中途半端にしているかも。 この人なら、こういうやり方になるかと納得だけど、今ひとつ様になっていない。 これがフラームスの協奏曲なら、叙情サイドに振っても音楽として成立するだけの奥向きが、楽曲に備わっている。 しかし、ブルッフの協奏曲はもっと軽薄な曲なので、ストレートに力を込めてくれたほうが、わかりやすい。 伴奏のハイティンクは、ソロがメインの場面では伴奏に徹するけれど、オケが前に出る場面では、量感があって力強い。 立派だし曲の劇的なイメージには合っているけれど、ソリストの方向性とはズレがある。 グリュミオーに合わせるなら、70年代初頭のシェリングとの協演盤のように、柔らかくジェントルにやってほしかった。 第二楽章は、グリュミオーの良さが感じられる。 肩肘張ってダイナミックに演奏されるとスカスカに陥りやすい楽曲を、等身大で伸びやかに歌わせている。 :::::::::: グリュミオーは、持ち味がはっきりしている奏者だけど、持ち味にピッタリとは思えない楽曲でも、それなりに聴かせる懐の広さを持っていると思う。 ただ、このブルッフは、そうでもなかった。