投稿

6月, 2020の投稿を表示しています

ヤノフスキによるマスカーニ歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』

イメージ
マレク・ヤノフスキ指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団、ライプツィヒMDR放送合唱団他。 2019年の録音。 ヤノフスキは、1939年ポーランド出身の指揮者。ただし、ドイツで育ったようだ。 彼は、2001〜2003年にこのオーケストラの首席指揮者を務めたことがあるが、2019年に返り咲いている。 劇場経験豊富なヤノフスキがこの作品を指揮できて、何の不思議もないけれど、一般論としては、このベタなイタリア・オペラとの取り合わせには、異質な印象がある。 が、この曲は好きだけど、基本イタリア歌劇を苦手とする当方にとして、むしろベタベタしていないところに期待。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 演奏の味わいとしては、ヤノフスキのワーグナー演奏あたりの印象に近い。 聴手を煽るのではなく、冷静な手さばきで作品書法を明解に描き出す。サウンドはどのパートも均質で、逆に言うと色彩感は乏しい。 リズムの処理は清潔で、コブシを振り回すことはないけれど、歌わせるべき箇所では旋律線をしっかり際立たせる。 緩急や剛柔の振れ幅はけっこうあって、しかも切り替えが機敏。 とくに激しい部分でのオーケストラのコントロールには舌を巻く。明解さを保ったまま、スリリングにドライブする。通常の場面では控えめに支える低音パートも、透明度を保ったままモリモリと高まる。 しかし、オーケストラの動きは機敏で、後にひかない。 地味な技だけど、ヤノフスキのこういうところは好み。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 全体としては、雄弁に柔軟に歌手たちをエスコートしているけれど、感情表現には深く入りこまない。 ドラマ的な側面を尊重しつつも、歌唱陣、オーケストラ、合唱団をひっくるめた、全体のアンサンブルの作り込みにも目を光らせている。 これが、この指揮者のいろいろな距離感なのだろう。 歌唱陣は、演技とかキャラ作りの成否はともかく(というか、そういうことに関心がないので・・・)、素直で明瞭な歌唱。 この演奏にふさわしい人選と思われ、気持ちよく聴き通せる。

フルシャによるドヴォルザーク交響曲第8番(2018年)

イメージ
ヤクブ・フルシャ指揮バンベルク交響楽団の演奏。 2018年の録音。 ヤクブ・フルシャは、1981年チェコ出身の指揮者。 2016年からバンベルク交響楽団の首席指揮者を務めている。 標準的〜余裕のあるテンポ設定で、安定感のある足どり。 場面場面の表情の作り方は、けっこう凝っている。わかりやすいところでは、第三楽章の主題を、1回目と2回目でニュアンスをあきらかに切り替えている。 ただ、場面に合わせて特定のパートを際立たせる、みたいなことはやらない。 常にアンサンブル全体を意識させながら、バランスの制御で表情を作っていく。 盛り上がる場面でも、サウンドイメージは鮮明で、よくコントロールされている。それでいて生気を感じさせる。 そのため、上に挙げたような細部での凝った演出はあるけれど、総合的には安定感の勝った、恰幅の良い仕上がりになっている。 この指揮者の基本的な能力の高さは十分に伝わるが、味わいみたいなものは薄まっている。 それは、この演奏の弱点ではないけれど、本場出身の若手指揮者ということで、思い入れの強い演奏を期待すると、裏切られそう。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 録音はそれなりに優秀だと思うけれど、量感豊かな録り方なので、再生装置との相性が強く出そう。 豊かさと細やかさの両方を再現できないと、サウンドが塊状になって、フルシャの演出がうまく伝わらなさそう。 高級オーディオ装置が必須というわけではないと思うけれど(ちなみに、わたしのは高級ではない)、低音の出方とかがある程度調教されていないと、冴えない鳴り方になりそう。

バーンスタインによるショスタコーヴィチ交響曲第7番(1988年)

イメージ
レナード・バーンスタイン指揮シカゴ交響楽団。 1988年録音。 当時バーンスタインは70歳。 同じ年の大曲の録音としては、シベリウスの7番、チャイコフスキーの5番、ドヴォルザークの新世界とチェロ協奏曲、マーラーの6番、モーツァルトのレクイエムがある。 また、彼はこの曲を1962年にニューヨーク・フィルハーモニックと録音している。 ちなみに、彼が正規録音を残したショスタコーヴィチの交響曲は、1番、5番、6番、7番、9番、14番で、14番以外は2回ずつ録音している。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* バーンスタインというと、死後も生前もマーラー指揮者として名高いけれど、わたしの中では、彼はマーラーに向いていない指揮者。 というか、独墺系の音楽全般に向いていないと思っている。その理由は、彼のサウンドについての感性。 バーンスタインは、複雑なオーケストレーションの音楽でも、各パートを徹底して分離して、それぞれから生々しい表情を引き出す。 整然とクールにまとめるのではなく、生々しくやれるところが彼の非凡さだと思っている。 ただ、このやり方だと、ハーモニーの彩りや豊かさが発揮されないず、響きの彩度が低下する。 また、濃く息苦しい空気感が常時発動しているので、集中と解放みたいな演奏効果を発揮できない。 これでは、管弦楽法の大家であったマーラーの作品はもちろん、ベートーヴェンだって、ブラームスだって、曲の魅力を引き出しきれない。 それに対して、ショスタコーヴィチの音楽との相性はいいと思う。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 堂々としているけれどもたれない足取り、歪みのない安定した造形。そして、濃密な表情とサウンド。 ただ、濃密さの裏返しとして息苦しい。 この作品をシリアスな大曲として聴きたいなら、理想的ではないかと思う。 他の演奏だとハリボテっぽく聴こえることが多い楽曲だけど、この演奏で聴くと、全編濃密でリアル。 ちなみに、爆演ではない。緊張感と密度感ゆえに、聴き手に対する圧は強いけれど、クライマックスでも各パートの制御は緩まない。 音の大きなパートを威嚇的に鳴らして盛り上げる、みたいなやり方とは一線を画している。 胸のすくような盛り上がりを求めるなら、他をあたったほうが良いと思う。 中身の詰まった一途な音楽で、サービス精神は乏しい。

ネルソンスによるショスタコーヴィチ交響曲第7番(2017年)

イメージ
アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団。 2017年の録音。 ネルソンスは1978年ラトビア出身の指揮者。 この録音当時は、30代の終盤。 2014年からボストン交響楽団の音楽監督を務めている。 ちなみに、彼は2018年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターにも就いている。スター街道を驀進中。 なお、ネルソンスは、2011年にバーミンガム市交響楽団と、この曲を正規録音している。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ネルソンスの持ち味はアクの強いものではないけれど、かなりハッキリしていて、曲やオーケストラが変わっても、一貫したトーンがある。 それでも、ベートーヴェンの交響曲のような堅牢な音楽なら、演奏者による侵食を簡単には許さない。 しかし、同じドイツの交響曲でも、ブルックナーあたりになると、演奏者の振る舞い方によって、印象は大きく変わる。 では、ショスタコーヴィチの交響曲はどうかというと、わたし自身の思い入れが弱いので、何とも言いづらい。 少なくともこの曲のことは、芝居がかった演奏効果重視の音楽と捉えている。さしあたって、気持ちよく盛り上げてくれたら、そんなに不満を感じない。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ネルソンスのアプローチは、几帳面、生真面目なもの。 昔流行った形容のしかたをすれば、純音楽的なアフプローチ。良くも悪くも、芝居っ気を表に出さない。 彼の録音を聴いていて、いつも感心するのは、大規模なオーケストラをスケール豊かに響かせながら、同時に繊細感とか細やかさを強く意識させる、耳の良さとか統率力。 それは、この演奏でも遺憾なく発揮されているというか、スタイリッシュと言いたいくらいビシッと決まっている。 第一楽章の中間部のような場面を聴いていても、音楽の高まりに興奮するより前に、その鉄壁の統率とオーケストラの性能に感心する。 逆に言えば、この楽章に期待する狂気とか興奮といった成分は基準値を下回っており、聴いていて面白くはない。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* しかし、楽曲自体が冗長になる分、第二楽章以降は、ネルソンス流の有効性が際立ってくる。 とくにその真価を実感したのは終楽章。 全曲中もっとも締りを欠く不出来な楽章に、ネルソンスとボ...