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10月, 2020の投稿を表示しています

ティーレマンによるブルックナー交響曲第8番(2019年録音)

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クリスティアーン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。  2019年10月の複数の演奏会から編集された音源。 交響曲全集の第1弾とのこと。 なお、ティーレマンは、2009年にこの交響曲をシュターツカベレ・ドレスデンと録音。同じ組み合わせで、2012年に映像を残している。 ちなみに、2009年の音源と演奏時間は比べると、大差はない。第一楽章はほぼ同タイムで、残りの3楽章は、新録音のほうが少しずつ短くなっている。   

クレンペラーによるベートーヴェン交響曲第3番「英雄」

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オットー・クレンぺラー指揮フィルハーモニア管弦楽団。 1959年のセッション録音。交響曲全集から。  クレンペラーのテンポ感の崩壊が見え始めたのが1950年代の終盤からで、ベートーヴェンの交響曲全集は、ちょうどその移行期に録音された。 そのためにこの全集は、興味深くも奇妙な仕上がりになっている。そんな中で「英雄」は崩壊後の方で、かなり遅いテンポ。   *-*-*-*-*-*-*-*-*-*    もっとも、この演奏を聴いて「崩壊」という言葉を連想させられることはないだろう。数年間に起こったテンポ感の変化が、あまりに極端なので「崩壊」というくらい大げさな言葉を使いたくなるけれど、個々の演奏が崩壊しているわけではない。 むしろ、この「英雄」などは、滅多にないくらい堅固で明晰に仕上がっている。演奏として全く崩れていない。 むしろ、このテンポなのに、停滞感や粘着感が一切ないところに、この指揮者の非凡な特質が表れている。 録音当時すでに70代半ばだけど、彼の耳は健在だったようで(推測)、その統率力とあいまって、質のそろったクリアなサウンドに仕上がっている。 そして、特筆したいのがそのリズム感。クレンペラーに限らずワールドクラスの演奏家だったら、リズム感は良いに決まっているのだけど、クレンペラーはこのテンポで音楽全体を躍動させる。こういう感じは、他に記憶がない。 彼の演奏スタイルは、構造や書法から楽曲にアプローチする典型であるにもかかわらず、 その音楽に生命感の横溢を感じさせる源泉は、このリズム感にある。 このリズム感はたぶん生来のもので、狙ってやっているわけではないのだろうけど、テンポ崩壊後のクレンペラーの演奏様式では、遅い足取りと躍動するリズム感との取り合わせが、際立って特徴的。   *-*-*-*-*-*-*-*-*-*   クレンペラーにとって得意曲だったようで、EMIへの正規録音は2つだけだが、ライブ音源が多数あり、映像も残っている。 EMIに残されたもう一つの音源は、1955年のモノラル録音で、 これでも堂々として聴こえるが、今回取り上げる音源より4分も短い。 EMIの音源なら、1955年の方が好みというか、クレンペラーにとって屈指の音源ではないかと思っている。 楽曲へのアプローチは1959年録音と変わりない...

メータによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』(2002年録音)

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ズービン・メータ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団他。  2002年の公演からの編集物。   メータは、1998〜2006年にかけて、この劇場の音楽監督だった。その時期の録音。当時メータは円熟の66歳。   *-*-*-*-*-*-*-*-*-*   メータの演奏様式は完成されており、 オーケストラのことも掌握できている感じだが、音楽そのものが訴求してこない。  読みが浅いとか、表面的とかではなく、いろいろ削ぎ落とした純度の高い音楽なのだけど、割り切りよく削ぎ落とし過ぎでは?という感じ。 なめらかで透明度の高いサウンド、スムーズで機能的なアンサンブル、ほんの少し生々しい響きを帯びた金管パートあたりが主成分。 この透明感と滑らかさを両立させたアンサンブルは、容易に到達できないような、洗練された領域なのだろうが、かと言って官能的と呼べるような域には達していない(“まじめさ”ゆえかもしれない)。 感情表現もあるにはあるけれど、おおむね歌手たちに任せていて、それに寄り添うくらいの濃さにとどまっている。 もしかしたら、知的な抑制を働かせているのかもしれないが、一歩どころか、三歩も四歩も距離を置いている感じがもどかしい。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* そこそこ動的ではあるけれど、血の気の薄い管弦楽のせいで、ドラマとして静的に感じられる。 そしてその影響か、歌手たちの歌唱は個々には雄弁だけど、リアルに響いてこない。 もっとも、脚本の読み替え上演が一般化している時代だけに、こういうのが舞台の演出にはピッタリだったのかもしれない(ちなみに、公演の映像も発売されている)。

ゲルギエフによるブルックナー交響曲第5番(2019年録音)

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ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏。 2019年、ブルックナーゆかりの聖フローリアン修道院でのライブ演奏(編集物)。 ゲルギエフは、2015年9月より同オケの首席指揮者を務めており、すでにブルックナーの交響曲全集を完成させている。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 以前、ゲルギエフの指揮によるワーグナーを聴いたことがあり、音符をのっぺりとつなげて歌わせる手法に違和感を覚えた。あんな感じだと嫌だな、と思いながら聴き始めたが、不安は的中しなかった。 豊かな響きのせいで、当たりはずいぶん柔らかいが、端正でメリハリもある。造形は柔構造で、ガッチリとしたものではないが、安定感はある。 本場風のテイストとは異なるものの、異国情緒がことさらに強いわけでもない。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 演奏者も録音スタッフも、会場の豊かすぎる響きを活かすことに意識を向けているようだ。 ゲルギエフは、もともとサウンドを形成する能力の高い指揮者だが、自分らしさを活かしつつもそれを前面に出さないで、オーケストラとの共同作業を成功に導くことに力を注いでいる感じ。 本来オーケストラ音楽に不適なレベルに豊かな響きの代償として音が濁るのはしかたがないけれど、そんな中でオーケストラを繊細にコントロールして、肌理のある音楽に仕上げている。 指揮者の“色”より“腕”を感得させてくれる音源だと思う。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ミュンヘン・フィル視点に立つと、たとえ響きの面でやっかいでも、作曲者ゆかりの会場での演奏記録には、意義があるのだろう。 しかし、エピソード性にこだわるなら、ローカルな味わいに100%浸れるよう、筋金入りのドイツ系指揮者に棒を託してほしかった(誰が適任かはわからないが)。 ゲルギエフは首席指揮者として見事に腕前を聴かせているし、もしかしたらこの仕事を楽しんだかもしれないが、この人の実力を堪能するなら、音楽的な意味でまともな会場が望ましいと感じた。