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イヤホンの耳垢問題(1)

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ここ数年、イヤホンをよく使うようになった。常用しているのはEtymotic ResearchとWestoneのイヤホン。 イヤホンを使っていて、常に気になるのが、耳垢の問題。 Etymotic Researchには、画像のようなクリーニングセットが付属している。 4個ある緑色がフィルターで、イヤホンのステムの入り口付近に入っている。 筒の中に目の細かいメッシュ状の壁があって、耳垢などの異物の侵入を防いでいる。 そして、銀色の金具は、フィルターを取り出すための道具。 フィルターは使い捨てで、使用頻度や体質によるのだろうけど、おそらく3ヵ月~1年の範囲で交換するのが本来の使い方。 当初は自然体と言うか、音質の劣化を感じたら交換していた。 「最近高音が伸びなくなっている」と感じたときに、ルーペでのぞき込むと、だいたいフィルターに耳垢が引っ掛かっている。 交換すると高音が復活するのを何度か体験し、耳垢問題への認識が高まった。 :::::::::: 過去に5〜6回ヤフオクで中古イヤホンを落札した。 その半分以上が、音質がこもっていて、音楽鑑賞に耐えられない状態だった。 ステム(音が出る管の部分)内に耳垢がたまっているものもあった。 画像のようなクリーニングツールが付属していることが多い。 そこで、目視できる範囲で耳垢は取り除いたが、音質は改善されない。 新品状態を知らないから、それが本来のサウンドなのか、耳垢のせいで劣化しているのか、判断できない。 イヤホンの構造によっては、本体内部まで耳垢やその他の異物が入り込んで、性能を残ってしまうかもしれない。 そういうイヤホンだと、Etymotic Researchのフィルター交換の経験から推定すると、新品購入から、1年以内に、本来の性能を失う恐れがある。 :::::::::: Etymotic Researchのようなフィルター交換の仕組みがない商品では、耳垢ガードの付いているイヤーピースを使うことで、ある程度は対策できる。 ただし、この種のイヤーピースは、音質に影響を及ぼす。耳垢のかわりに、耳垢ガードという異物が音の邪魔をする。 わたしの印象では、おもな高音を損なう。 コンプライの耳垢ガードは、微細な異物までしっかりガードできそう。 見...

ミュンシュによるベルリオーズ幻想交響曲(1967年セッション録音)

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好感度 ■■■ ■■ シャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団。 1967年のセッション録音。 パリ管弦楽団は、パリ音楽院管弦楽団を母体として、1967年設立。 その初代首席指揮者がシャルル・ミュンシュだったが、彼は1968年に急逝。 亡くなったとき77歳だったので、年齢を見たら意外な死ではない。 ただ、演奏を聴く限り、力が漲っている。この1年ほど後に亡くなるとは予想しづらいか・・・ :::::::::: 鋭敏でドラマティックな演奏。楽想の変化に敏感に、大きな身振りで反応し、この曲の異様さを生々しく表現している。 丹念に磨き上げるのではなく、むしろオーケストラを振り回すことで、望む効果を生み出していところは、いかにもあの時代の大指揮者という風情。 荒々しくても、サウンドの見通しの良さは揺るがないし、場面場面での個々のパートの浮き上がらせ方は、芸が細かい。 その気になれば、アンサンブルを高いレベで磨き上げられそうだけど、この指揮者はそちらに向かわない。 オーケストラを駆り立て、煽るところから、非日常の狂気を演出する。 現代の感覚で聴くと、かなり荒削り。 しかし、美しいところは美しく、グロテスクなところはグロテスクにと、よりストレートな表現ととれなくもない。 洗練とか耳あたりの良さが偏重されるスタイルも、どこか退屈なので。 :::::::::: エネルギーは大きいけれど、オーケストラの編成はそんなに大きくはなさそう。 内声部の表情が雄弁で鮮度が高い。 圧力は強いけれど、響きの量感によるそれではなく、あくまでも表現の激しさ、ダイナミックさで迫ってくる。 単純な脳筋ではなく、作品書法に対する識見も意識させられる。 :::::::::: ミュンシュの感情表現は達者だけど、その根底には思い切りの良さがあって、そのために、演奏自体が力強くて健康的な色調を帯びてしまう。 作曲者が書き記した深い絶望感とか麻薬がもたらす幻想みたいな気配は乏しいかもしれない。むしろ、ためらいなく狂気に身を任せるような風情がある。 :::::::::: よりリアルな狂気に浸りたいなら、同じ組み合わせによるデビュー・コンサートのライブ録音だろう。 その後にこの音源を聴くと、むしろ、場面場面の表情を着実に表出している...

ショルティによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』

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ゲオルグ・ショルティ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。 1958〜1965年に録音された楽劇『ニーベルングの指環』全曲から。 『ワルキューレ』の録音は1962年のようだ。古い情報には1965年とするものもあった。 指揮者のショルティは、この録音中に50歳になったようだ。 :::::::::: リマスターによって、印象がグッと良くなった。 以前の録音だと、金管パートの生々しさがときに刺々しく聴こえたが、この音源にはそれがない。 響きの鮮度は上がっているのに、まろやかな一体感が感じられる。 どちらが実際に近いかはともかく、管弦楽への印象が変化した。 ダイナミックで表情の彫は深めだけど、名門オーケストラの美質を活かしながら、知的に楽曲の書法を描き出した演奏、くらいの印象。 これだったら、曲を楽しみたいときに、気軽に耳を傾けられそう。 :::::::::: 歌唱を聴くには、模範的な音源の一つだと思う。 主役級の歌手それぞれがハマっていると言うか、声や歌い方と役柄とのマッチングが自然に感じられるという意味で、最右翼の音源だと思う。 というか、低次元なことだけど、役柄とのキャラの乖離や、過剰なヴィブラートや、余裕のない発声などで、足を引っ張る人が一人もいないのはありがたい。 :::::::::: ショルティが率いる管弦楽は、普通にストーリーが流れていく部分、つまり大半はとても良い。 録音の録り方もあるのだろうけれど、木管とかの内声部も雄弁で、全体的には明晰さが勝ったアプローチだけど、ほどよく湿度とか濃さが加味されている感じ。 一般的な意味での相性の良さとは違うけれど、ショルティとこのオーケストラとの組み合わせは、いい塩梅。 :::::::::: ただ、盛り上がる場面でのショルティの作法は、ちょっと安っぽい。 彼は、塊状の響きが嫌で、個々のパートを明解に響かせたい。しかし、劇的なシーンでは、迫力とか激しさも表現したい。 この2つを両立させるために、ここぞという場面で、金管を鋭いアクセントで野太く鳴らす。 確かに、このやり方なら、響きを混濁させないで迫力を演出できる。しかし、単純に聴いていて下品だし、演奏様式としても洗練を感じない。 その瞬間、サウンドは混濁しないものの、金管が前に出過ぎることで、響...

バーンスタインによるベルリオーズ幻想交響曲(1976年)

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好感度 ■■ ■■■ レナード・バーンスタイン指揮フランス国立管弦楽団。1976年のセッション録音。 バーンスタインがCBSレコードとの独占的な関係を解消し、EMIやDGへの録音を活発化させた頃の録音。 :::::::::: 個々のパートを生々しく蠢かせながら、しかしオーケストレーションの全貌を常時整然と提示している。 「この場面では木管を前面に出して、弦は背後から支えるように・・・」というような形で響きを整理しない。 すべてのパートを均等に聴かせることが前提にあって、その上でバランスがコントロールされている。 このあたりは、作曲をする指揮者ならではのこだわりのようにも聴こえる。 機械的な意味での楽譜への忠実ではなく、音符の一つ一つにもれなく(彼なりの)意味を与えようとしている感じ。 そしてこの指揮者は、自分の望む音楽をやりきれる耳の良さとか、統率力を備えている。 :::::::::: ただし、こういう鳴らし方には副作用もある。 まず、場面場面の表情のメリハリは出にくくなる。表情付けが的確におこなわれているのは伝わってくるけれど、場面ごとのコントラストは弱い。 良くも悪くも、語り口みたいな要素は乏しい。 それ以上に気になるのが、それぞれのパートの響きが被さりあって、音の鮮度を少しずつ損なっている点。全体の響きを、ほんのりと濁らせくすませる。 個々のパートの表情や動きは明瞭かつ生々しいけれど、総じて鈍色で伸びない。 この音源は、フランスのオーケストラだからか、息苦しさは軽減されているけれど、響きに艶とか華やかさは無い。 そして、EMIの締まらない録音が、その傾向を助長している。 :::::::::: 良く言えば、作品のおどろおどろしい面を引き出している。でも、おどろおどろしくない方が効果的であろう場面も、おどろおどろしく聴こえる。 第四、第五楽章は、これらだけを抜き出して聴けば、らしく聴こえるかもしれない。物々しくて迫力もある。