ヴァントのブラームス交響曲第3番(1983年録音)
ヴァントの、この交響曲の録音は3つあるようで、今回採り上げるのは、2回目のもの。セッション録音。
現時点での、わたしの中でのヴァントの存在感は、ある面では最高レベルの手腕の持ち主だけど、キャパシティの狭い指揮者というところ。
ここでいうキャパシティの狭さというのは、ブルックナーはすばらしいが、他の作曲家との相性は・・・というような意味ではない。
誰の作品を演奏するにせよ、ヴァントは"感情表現"をできない、あるいはやらない指揮者だ。
そのために、ドイツ・ロマン派の演奏を聴いていると、何かが足りない気分にさせられることが多い。
手っ取り早く"感情表現"という言葉遣いをしたけれど、もう少し噛み砕いていうと、場面毎の色調の変化のバリエーションが狭いということ。これの変化が多彩だと、感情表現のように感じられることが多いので、あえて"感情表現"と言ってみた。
その結果、ヴァントのこのブラームスは、楽章同士のキャラの対比が弱くなっている。たとえば、第2交響曲は、演奏によっては楽章ごとの色合いがはっきりと異なるけれど、ヴァントの演奏ではそれが乏しい。
もちろん、各交響曲の対比についても同じことが言える。
大指揮者、スター指揮者は、強烈な持ち味を持つことが多いので、これと同じ現象が起こりやすい、と思う。
ただ、ヴァントの場合、個性の強さとは別に、上で"感情表現"と述べた種類の表現力が乏しく感じられるところは事情が異なる、ような気がする。
同じ北ドイツ放送交響楽団の音源ということなら、シュミット=イッセルシュテットが指揮した同じ曲の録音を聴くと、あの演奏なりの独自の味わいはあるけれど、同時にわたしがこの交響曲について知っている要素は一通り網羅されている。
もし、この交響曲を知るために、1つの音源しか聴くことができない、みたいな状況に置かれたとしたら、 楽曲についてより多くの情報を得られるのはシュミット=イッセルシュテットの方だと思う。
もちろん、ヴァントの流儀だからこそ得られるものもある。作品書法の鮮明さとしては最高の純度に到達していると思う。
ヴァントはすべて声部を精緻に浮き上がらせる。それだけなら珍しいやり方ではないけれど、彼のは洗練度が違う。精緻なたたずまいが、ある種の美しさを感じさせるレベル。
透徹しているけれど、聴き手に厳しいばかりではない。
精緻なアンサンブルを包み込むようにやわらかく広がる量感、清潔でしなやかなラインを描くフレージングは心地よい。
ただ細かくて几帳面というに止まっていなくて、それらを突き詰めることで、独特の音楽の美しさ、心地良さにまで昇華されている。
これ自体は、ちょっとやそっとでは到達できないような高い芸境と思う。
第3交響曲の、この音源に関しては、全曲を通して素晴らしいクォリティだけど、特に中間の二つの楽章の透明かつ立体的な表現に感銘した。
この楽曲につきまといがちな晦渋なイメージを払拭し、あらゆるフレーズを瑞々しくしなやかに浮かび上がらせながら、それらが広々とした演奏空間の中に整然と群舞を繰り広げているような感覚。
精緻というだけなら、同等レベル演奏を聴いた覚えがあるけれど、こういうサウンドイメージは初めての経験だ。
上で「1つの音源しか聴くことができない」という仮定をしたけれど、いろんな演奏をとっかえひっかえできるなら、結論は違ってくる。
キャパは広いけれども穏当な演奏より、キャパは狭くともある方向性で抜きん出た演奏の方が面白い。
この音源も、そんなヴァントのトンガッタ個性と才能を満喫できる演奏と思う。
現時点での、わたしの中でのヴァントの存在感は、ある面では最高レベルの手腕の持ち主だけど、キャパシティの狭い指揮者というところ。
ここでいうキャパシティの狭さというのは、ブルックナーはすばらしいが、他の作曲家との相性は・・・というような意味ではない。
誰の作品を演奏するにせよ、ヴァントは"感情表現"をできない、あるいはやらない指揮者だ。
そのために、ドイツ・ロマン派の演奏を聴いていると、何かが足りない気分にさせられることが多い。
手っ取り早く"感情表現"という言葉遣いをしたけれど、もう少し噛み砕いていうと、場面毎の色調の変化のバリエーションが狭いということ。これの変化が多彩だと、感情表現のように感じられることが多いので、あえて"感情表現"と言ってみた。
その結果、ヴァントのこのブラームスは、楽章同士のキャラの対比が弱くなっている。たとえば、第2交響曲は、演奏によっては楽章ごとの色合いがはっきりと異なるけれど、ヴァントの演奏ではそれが乏しい。
もちろん、各交響曲の対比についても同じことが言える。
大指揮者、スター指揮者は、強烈な持ち味を持つことが多いので、これと同じ現象が起こりやすい、と思う。
ただ、ヴァントの場合、個性の強さとは別に、上で"感情表現"と述べた種類の表現力が乏しく感じられるところは事情が異なる、ような気がする。
同じ北ドイツ放送交響楽団の音源ということなら、シュミット=イッセルシュテットが指揮した同じ曲の録音を聴くと、あの演奏なりの独自の味わいはあるけれど、同時にわたしがこの交響曲について知っている要素は一通り網羅されている。
もし、この交響曲を知るために、1つの音源しか聴くことができない、みたいな状況に置かれたとしたら、 楽曲についてより多くの情報を得られるのはシュミット=イッセルシュテットの方だと思う。
もちろん、ヴァントの流儀だからこそ得られるものもある。作品書法の鮮明さとしては最高の純度に到達していると思う。
ヴァントはすべて声部を精緻に浮き上がらせる。それだけなら珍しいやり方ではないけれど、彼のは洗練度が違う。精緻なたたずまいが、ある種の美しさを感じさせるレベル。
透徹しているけれど、聴き手に厳しいばかりではない。
精緻なアンサンブルを包み込むようにやわらかく広がる量感、清潔でしなやかなラインを描くフレージングは心地よい。
ただ細かくて几帳面というに止まっていなくて、それらを突き詰めることで、独特の音楽の美しさ、心地良さにまで昇華されている。
これ自体は、ちょっとやそっとでは到達できないような高い芸境と思う。
第3交響曲の、この音源に関しては、全曲を通して素晴らしいクォリティだけど、特に中間の二つの楽章の透明かつ立体的な表現に感銘した。
この楽曲につきまといがちな晦渋なイメージを払拭し、あらゆるフレーズを瑞々しくしなやかに浮かび上がらせながら、それらが広々とした演奏空間の中に整然と群舞を繰り広げているような感覚。
精緻というだけなら、同等レベル演奏を聴いた覚えがあるけれど、こういうサウンドイメージは初めての経験だ。
上で「1つの音源しか聴くことができない」という仮定をしたけれど、いろんな演奏をとっかえひっかえできるなら、結論は違ってくる。
キャパは広いけれども穏当な演奏より、キャパは狭くともある方向性で抜きん出た演奏の方が面白い。
この音源も、そんなヴァントのトンガッタ個性と才能を満喫できる演奏と思う。
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