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シェリングによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲

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1965年のセッション録音。  ヴァイオリン独奏はヘンリック・シェリング。管弦楽はゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮のロンドン交響楽団。 シェリングを、そんなによく聴いているわけではないけれど、漠としたイメージはあって、そのイメージからして楽曲との相性は気になった。 実際に聴いてみると、思っていた以上に、予感通りの演奏になっていた。ここまでくると、その演奏様式の揺ぎ無さに感心してしまうほど。 * * * * * フレーズの伸縮とか抑揚は乏しく、歌い回すような感覚はしない。淡々と端正に、一節一節のニュアンスを聴かせる。 曲想そのものは起伏に富んでいると思う。ロジェストヴェンスキーの指揮は、そういうのに反応しているけれど、シェリングは、ポーカーフェイスで自分のスタイルを貫く。 感情表現に対するこれほどの淡白さは、特異かも知れない。単純に理知的と片づけられないレベル。 * * * * * ロジェストヴェンスキーは、盛り上がる場面で少々荒々しい響きを作ったりする。そういうところから、指揮者の方は、熱のこもった楽曲として作品をとらえているような印象。 伴奏として節度を保っているので、シェリングとの間にあからさまな齟齬を気取らせない。それでも、高揚する場面では、少し両者の温度差を意識させられる。

ツィンマーマンによるブラームスのヴァイオリン協奏曲

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フランク・ペーター・ツィンマーマンのヴァイオリン独奏、管弦楽はヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。 1995年のライブ録音。 フランク・ペーター・ツィンマーマンを聴くのは初めて。 サヴァリッシュとベルリン・フィルとの組み合わせは珍しいようだ。個人的に、1970年後半以降のこの指揮者に共感を持てないのだけど、実力は否定できない。 * * * * * ツィマーマンのヴァイオリンは、線が細くて、端正で繊細感が強い。響きは、一貫して、湿度と透明感が程よくバランスしている。上品な味付け。 耳をそばだてると、吟味しつくされたような練れた表現が聴こえてくるけれど、全体的に押しが弱いので、漫然と聴いてしまうと、何気なく流れていく感じ。 * * * * * これで管弦楽がゴリゴリだと、ツィマーマンの持ち味が台無しになってしまうけれど、そこはサヴァリッシュなので心配無用。 程々の恰幅はあるけれど、締りのあるサウンドと柔軟なアンサンブルで、ヴァイオリン・ソロにピッタリとつけている。 管弦楽の方も、強く訴求してくる質の音楽ではないけれど、上質感が高い。ヴァイオリン・ソロと方向性が近いので、しっくりしている。 * * * * * そんな中、キビキビとした第三楽章は、ベルリン・フィルの機動力が際立つ。 独奏を押し潰すようなマネはしていないけれど、ここでも大人しめのヴァイオリン・ソロよりも、オーケストラの小気味良い機動性の方が、感覚的に気持ち良い。 個人的には、この点がもっとも聴きどころだったような・・・

ハイフェッツ、ビーチャムによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲

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1935年のセッション録音。ハイフェッツが30代半ばころの演奏。 ヴァイオリン独奏はヤッシャ・ハイフェッツ、管弦楽はトーマス・ビーチャム指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団。 世間一般で、ハイフェッツのこの曲の音源というと、1959年のステレオ録音になるのだろう。録音が良いし。 個人的に、ハイフェッツを聴くのは、モノラル期のセッション録音かライブ録音。断然、その方が面白いから。 * * * * * ハイフェッツというと、とりあえず技術の高さを称賛されるようだ。しかし、このあたりの加減は、わたしにはわからない。たとえば、レーピンやヴェンゲーロフといった現代の奏者と比べて、どちらが上手いのか? ここでのハイフェッツと、別記事のレーピンの演奏とを比べると、精度はレーピンの方が高く聴こえる。 ただ、レーピンが精巧に演奏すること自体を目的としているように聴こえるのに対して、ハイフェッツはもっと別のことをやろうとしているように聴こえる。 別の言い方をすると、レーピンは、こちらの音楽観とかシベリウス観にまったく影響を与えないけれど、ハイフェッツは挑みかかってくるみたいに、聴こえる。 フレーズとかリズムはギュッと引き締まっていて、テンポには畳みかける推進力がある。造形の面では、即物的に楽曲を切り詰めている。 一方、歌いまわしや抑揚の付け方とかは、自在でロマン的。いくぶんウェットな響きで流暢に歌いまわす。 楽曲のロマン性に感応するけれど、造形を歪めるような表現を断固拒否する、という強い意志が伝わってくる。そして、そういう音楽観を表明するために、自分の技術を使っている。 極論めいた音楽観だと思うし、聴いていて心地よいとは限らない。当然、楽曲や聴き手との相性は良し悪しははっきりと出てしまう。 そういうハイフェッツの攻めの姿勢が、流暢さと勢いを兼ね備えた独特の爽快さをもたらす一方、聴き手のイマジネーションを掻き立てる要素は乏しくしている。 * * * * * ビーチャムは、自らが設立して間もない手兵を指揮して、ハイフェッツの推進力のあるペースに合わせつつ、さりげなく力量を示している印象。 これだけ貧しい録音からでも、各パートは表情は明確で、サウンドを通して生気が伝わってくる。 ただ、この貧しい録音で、オーケストラ演奏...

レーピンによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲

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1994年のセッション録音。 ヴァディム・レーピンのヴァイオリン独奏、伴奏はエマニュエル・クリヴィヌ指揮のロンドン交響楽団。 最近のレーピンのジャケット写真と比べると、若いというか、顔がパンパン。 * * * * * しかし、演奏ぶりは、写真の印象とは違って(?)、端正で細やか。 一節一節のニュアンスが、細やかに描き分けられている。どちらかというと繊細方面に傾斜しているけれど、進行に揺るぎがないせいか、ひ弱な感じはしない。 ただ、徹底したコントロールを感じさせるから、こちらも冷静に聴いてしまう。結果として、感情表現の幅は狭い、という印象に。 それが良い悪いではなくて、そういう質の演奏と感じられる。感心はするけれど、感動しにくい。 * * * * *  クリヴィヌらの管弦楽は、後方支援に徹している。盛り上がる場面では力を開放するけれど、全体的に節度正しい。過不足の少ない好サポート。 ただ、この輪郭の淡い暖色系サウンドは、何だろう?ヴァイオリン・ソロを柔らかく包み込む感触は悪くないけれど、全体の響きの中に細かな動きが埋没気味。 これがクリヴィヌのイメージするシベリウスのサウンドなのだろうか? こういうモヤッとしたサウンドが合う楽曲はあると思うけれど、シベリウスにはどうだろう? ロンドン交響楽団の持ち味とは考えにくいから、指揮者か録音スタッフの意図なのだろうけれど。

ヴェンゲーロフによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲

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1996年のセッション録音。 独奏はマキシム・ヴェンゲーロフ、伴奏はダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団。 ヴァイオリン独奏もオーケストラも、それぞれ押し出しの良い音楽をやっているけれど、良くも悪くも体育会系。 * * * * * ヴェンゲーロフはかなり攻めている表現。ときにささやくように、ときにはワイルドに。歌いまわしには、だいたんな揺れや伸縮がある。 それでいて、技術的にも音色の面でも、まったく揺るがない。終始、力強い張りがある。 深い息遣いを聴かせるわけではないので、音楽に没入している印象を受けない。物おじなく、大胆に自在に、自分の感性を解放している感じ。聴き方によってはスポーツ選手の美技を楽しむ感覚。 熱演だけど、息苦しさはなくて、スムーズに進行する。 * * * * * 一方、バレンボイムの方は、骨太で堂々とした演奏ぶり。オーケストラの機動力をむき出しにした、骨太で硬質なタッチ。 本場の指揮者たちがこだわるシベリウスらしさみたいなものを一顧だにしないで、かと言ってバレンボイム独自のシベリウス像を形作るでもなく、力でねじ伏せるような感じ。 別に本場風の演奏でなくとも良いけれど、これだけ自己主張が強いのに、曲想への思い入れが感じられないので、居心地はよくない。