ハイフェッツ、ビーチャムによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲
1935年のセッション録音。ハイフェッツが30代半ばころの演奏。
ヴァイオリン独奏はヤッシャ・ハイフェッツ、管弦楽はトーマス・ビーチャム指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団。
世間一般で、ハイフェッツのこの曲の音源というと、1959年のステレオ録音になるのだろう。録音が良いし。
個人的に、ハイフェッツを聴くのは、モノラル期のセッション録音かライブ録音。断然、その方が面白いから。
ハイフェッツというと、とりあえず技術の高さを称賛されるようだ。しかし、このあたりの加減は、わたしにはわからない。たとえば、レーピンやヴェンゲーロフといった現代の奏者と比べて、どちらが上手いのか?
ここでのハイフェッツと、別記事のレーピンの演奏とを比べると、精度はレーピンの方が高く聴こえる。
ただ、レーピンが精巧に演奏すること自体を目的としているように聴こえるのに対して、ハイフェッツはもっと別のことをやろうとしているように聴こえる。
別の言い方をすると、レーピンは、こちらの音楽観とかシベリウス観にまったく影響を与えないけれど、ハイフェッツは挑みかかってくるみたいに、聴こえる。
フレーズとかリズムはギュッと引き締まっていて、テンポには畳みかける推進力がある。造形の面では、即物的に楽曲を切り詰めている。
一方、歌いまわしや抑揚の付け方とかは、自在でロマン的。いくぶんウェットな響きで流暢に歌いまわす。
楽曲のロマン性に感応するけれど、造形を歪めるような表現を断固拒否する、という強い意志が伝わってくる。そして、そういう音楽観を表明するために、自分の技術を使っている。
極論めいた音楽観だと思うし、聴いていて心地よいとは限らない。当然、楽曲や聴き手との相性は良し悪しははっきりと出てしまう。
そういうハイフェッツの攻めの姿勢が、流暢さと勢いを兼ね備えた独特の爽快さをもたらす一方、聴き手のイマジネーションを掻き立てる要素は乏しくしている。
ビーチャムは、自らが設立して間もない手兵を指揮して、ハイフェッツの推進力のあるペースに合わせつつ、さりげなく力量を示している印象。
これだけ貧しい録音からでも、各パートは表情は明確で、サウンドを通して生気が伝わってくる。
ただ、この貧しい録音で、オーケストラ演奏を評価するのは難しい。
ヴァイオリン独奏はヤッシャ・ハイフェッツ、管弦楽はトーマス・ビーチャム指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団。
世間一般で、ハイフェッツのこの曲の音源というと、1959年のステレオ録音になるのだろう。録音が良いし。
個人的に、ハイフェッツを聴くのは、モノラル期のセッション録音かライブ録音。断然、その方が面白いから。
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ハイフェッツというと、とりあえず技術の高さを称賛されるようだ。しかし、このあたりの加減は、わたしにはわからない。たとえば、レーピンやヴェンゲーロフといった現代の奏者と比べて、どちらが上手いのか?
ここでのハイフェッツと、別記事のレーピンの演奏とを比べると、精度はレーピンの方が高く聴こえる。
ただ、レーピンが精巧に演奏すること自体を目的としているように聴こえるのに対して、ハイフェッツはもっと別のことをやろうとしているように聴こえる。
別の言い方をすると、レーピンは、こちらの音楽観とかシベリウス観にまったく影響を与えないけれど、ハイフェッツは挑みかかってくるみたいに、聴こえる。
フレーズとかリズムはギュッと引き締まっていて、テンポには畳みかける推進力がある。造形の面では、即物的に楽曲を切り詰めている。
一方、歌いまわしや抑揚の付け方とかは、自在でロマン的。いくぶんウェットな響きで流暢に歌いまわす。
楽曲のロマン性に感応するけれど、造形を歪めるような表現を断固拒否する、という強い意志が伝わってくる。そして、そういう音楽観を表明するために、自分の技術を使っている。
極論めいた音楽観だと思うし、聴いていて心地よいとは限らない。当然、楽曲や聴き手との相性は良し悪しははっきりと出てしまう。
そういうハイフェッツの攻めの姿勢が、流暢さと勢いを兼ね備えた独特の爽快さをもたらす一方、聴き手のイマジネーションを掻き立てる要素は乏しくしている。
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ビーチャムは、自らが設立して間もない手兵を指揮して、ハイフェッツの推進力のあるペースに合わせつつ、さりげなく力量を示している印象。
これだけ貧しい録音からでも、各パートは表情は明確で、サウンドを通して生気が伝わってくる。
ただ、この貧しい録音で、オーケストラ演奏を評価するのは難しい。
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