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ヴィンテージスピーカーを買ってみた 〜 その2

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スピーカーの基本の(性能をまっとうに引き出すための)セッティングは落ち着いたが、好みの音にするという意味では、まだ試行錯誤中。 スピーカーは密閉型だし、トーンコントロールのないアンプなので(たぶんあっても使わないけれど・・・)、プレーヤーであるパソコンの設定やスピーカーのインシュレーターの材質を変えるなどして、地味に音質を調整している。 もっとも、セッティングの詳細は割愛する。 筐体を斜め上方に向ける変態セッティングなので、説明しにくいし、普遍性は皆無だろうから。 セッティングしながらわかってきたRFT、B7151の音は、良くも悪くも普通。ハイレゾ対応とかを求めなければ、今でも普通に使える。 逆にいうと、独特の味わいめいたものは乏しい。あえて言えば耳あたりが柔らかいけれど、このモデルの個性というより、紙コーンのフルレンジっぽい感触ではないかと推測している。 見た感じ安っぽいけれど、安っぽい音はしない。真面目な作りのようだ。 チープさの主犯格と思しき樹脂製の多孔式カバーも、片側8つのネジで本体にカッチリ固定されている。コストダウンはしても、手は抜いていない感じ? ちなみに、この多孔式カバーは、目の細かなサランネットより音の透過率が高そうで、個人的には嫌じゃない。見慣れたし・・・   おそらく、作り手が志向しているのは、モニター調というか、色付け感のない端整な音調。いや、モニター調と言えるほどクリアでもエッジが明確でもないけれど、聴こえるはずの音はニュアンスを含めてしっかり聴かせてくれる。定位は良好だし、左右だけでなく、上下にもそれらしく広がる。 サウンドチェック用の音源で確認したら、低い音は60Hzあたりまで聴き取れた。さすがに量感は控えめだけど、予想していたより優秀だった。 高い音も、人の声や楽器音をリアルに感じさせる程度には出ているけれど、伸びやかさ・華やかさ・透明感などは、現代のスピーカーより劣る印象。 おそらく、最大の魅力は、フッと前に出るような音の出方。性能の限界から、ホール全体の音響は表現しきれないけれど、ステージ上の雰囲気はけっこうリアルに感じられる。 いずれにしても、ニアフィールドでの小音量再生という使い方をするなら、実用的な選択肢のように思える。 そして、趣味の機器の割にサービス精神は乏しいけれど、上に書いた、「耳あたりの柔らかさ」と「フッと...

ヴィンテージスピーカーを買ってみた 〜 その1

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 先日、と言っても11月末頃に、1970年代後半東ドイツ産のスピーカー1ペアを購入。  すっかりトランジスタアンプ時代に入っており、まもなくCDが発売される頃のモデルなので、そこまで気合の入ったヴィンテージではない。 初心者が、試しに買うのに無難なところだろう(と素人考えで判断した)。 VEB Stern-Radio(RFT傘下)のB7151というモデルで、銘機とかではない(と思う)。 eBayとか覗くと複数出品されており、値付けはけっこう低い。ヴィンテージというより、普通の中古品のノリ。 もっとも、わたしは、マニアの人がメンテナンスしたものを国内で購入した。eBayの水準より高くなるが、送料まで含めると、大きく違うわけではない。  発売当時はこんな感じだったようで、今でいうミニコンポのスピーカーと言えそう(スピーカーのみでの単売もされていた模様)。 当時の東ドイツでは、こうしたオーディオ機器は普及品ではなく、贅沢品として扱われていたらしい。おかげで、過度なコストダウンからは免れているらしい。 とは言え、B7151はハイグレードな商品ではなかったようだ。見た目も、ご覧のように無骨。実用本位。   こいつの取り柄は、L2322というフルレンジユニットが搭載されていること。東ドイツで生産されたユニットの中では、定評があるものの一つ。 もっとも、このモデルに良いユニットが搭載されたというより、あるものを使い回していただけだろう。 残されている資料によると、このユニットは16kHz〜75Hzを再生できるらしい。 どうせ14kHzより高い音は聞き取れない。低音は、もう少し欲しくはあるが、現代の最小サイズのブックシェルフと同レベルだから、なかなかのものだと思う。 もっとも、製造されてから40数年経っているので、性能の劣化はあるだろうけれど・・・ 許容入力は10W。ちなみにL2322の先代モデルであるL2302は6W。 トランジスタアンプかデジタルアンプで鳴らすので、10Wのほうが扱いやすいように思えて(音量の調節とか)、L2322を選んだ。実際のところはわからないけれど。 B7151を選んだ理由はこんなところ。 “味わい”めいたものへの憧れでも、真空管アンプ愛好でもなく、ニアフィールドに近いセッティングで小音量再生することに、この種のスピー...

オッテルローによるベートーヴェン交響曲第7番(1962年)

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ウィレム・ヴァン・オッテルロー指揮ウィーン交響楽団(ただし、ウィーン音楽祭管弦楽団となっているものもある)。 1962年セッション録音(ステレオ)。   オッテルロー(1907-1978)はオランダの指揮者。 事故で亡くなるまで指揮者として活動していたが、レコーディングは1950年代から60年代半ばに集中している。その大半がフィリップス・レーベル。 ただしこの音源は、 コンサートホール・レーベルへの録音。     2014年に亡くなったドイツ人指揮者ゲルト・アルブレヒトによると、オッテルローは耳の良さでロスバウトやブーレーズを上回っていたらしい。 また、オーケストラが手兵だろうと客演先であろうと、徹底したリハーサルをおこなったらしい。 楽器ごとにグループ分けして練磨させた上で、全体のバランスを調整するアプローチだったそうだが、きちんとできない楽員には厳しかったようだ。 加えて、当時のウィーン交響楽団はカラヤンとの共演が多く(この年にリヒテルとチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番を録音している) 、状態は良かったであろう時期。 ということで、期待値がかなり高まった心持ちで聴くと、かなりがっかり。ロスバウトやブーレーズと比較できる水準にあるようには聴こえない。 ロスバウトやブーレーズとの決定的な違いは、サウンドに対する美意識の差だろう。ロスバウトや若い頃のブーレーズは、色付けを感じさせないクリアな響きを聴かせていたが、見方を変えると、そういう響きに対する美意識が強く感じられた。心地よいかは別にして、純度を感じさせるサウンドを実現していた。 この演奏を聴く限り、 オッテルローのサウンドに、そのような意味での洗練はない。むしろ、力感をほどほどに出している裏返しとして、響きはしばしばくすんで聴こえる。 基本的には引き締まった響きだけど、わざわざ明晰というほどではない。 合奏の精度はそこそこ高いように聴こえるが、だとしても、そのことが聴く喜びに直結していない感じ。というより、演奏精度を“売り”にするつもりがないということか? 実際、この演奏で印象的なのは、節度あるロマン性というか、第二楽章では気持ちの入った歌が聴けるし、第四楽章では熱が入っている。 楽曲の展開を、音のドラマとして、素直にわかりやすく描きあげている。 第四楽章のクライマックスでは、響きの...

ティーレマンによるブルックナー交響曲第8番(2019年録音)

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クリスティアーン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。  2019年10月の複数の演奏会から編集された音源。 交響曲全集の第1弾とのこと。 なお、ティーレマンは、2009年にこの交響曲をシュターツカベレ・ドレスデンと録音。同じ組み合わせで、2012年に映像を残している。 ちなみに、2009年の音源と演奏時間は比べると、大差はない。第一楽章はほぼ同タイムで、残りの3楽章は、新録音のほうが少しずつ短くなっている。   

クレンペラーによるベートーヴェン交響曲第3番「英雄」

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オットー・クレンぺラー指揮フィルハーモニア管弦楽団。 1959年のセッション録音。交響曲全集から。  クレンペラーのテンポ感の崩壊が見え始めたのが1950年代の終盤からで、ベートーヴェンの交響曲全集は、ちょうどその移行期に録音された。 そのためにこの全集は、興味深くも奇妙な仕上がりになっている。そんな中で「英雄」は崩壊後の方で、かなり遅いテンポ。   *-*-*-*-*-*-*-*-*-*    もっとも、この演奏を聴いて「崩壊」という言葉を連想させられることはないだろう。数年間に起こったテンポ感の変化が、あまりに極端なので「崩壊」というくらい大げさな言葉を使いたくなるけれど、個々の演奏が崩壊しているわけではない。 むしろ、この「英雄」などは、滅多にないくらい堅固で明晰に仕上がっている。演奏として全く崩れていない。 むしろ、このテンポなのに、停滞感や粘着感が一切ないところに、この指揮者の非凡な特質が表れている。 録音当時すでに70代半ばだけど、彼の耳は健在だったようで(推測)、その統率力とあいまって、質のそろったクリアなサウンドに仕上がっている。 そして、特筆したいのがそのリズム感。クレンペラーに限らずワールドクラスの演奏家だったら、リズム感は良いに決まっているのだけど、クレンペラーはこのテンポで音楽全体を躍動させる。こういう感じは、他に記憶がない。 彼の演奏スタイルは、構造や書法から楽曲にアプローチする典型であるにもかかわらず、 その音楽に生命感の横溢を感じさせる源泉は、このリズム感にある。 このリズム感はたぶん生来のもので、狙ってやっているわけではないのだろうけど、テンポ崩壊後のクレンペラーの演奏様式では、遅い足取りと躍動するリズム感との取り合わせが、際立って特徴的。   *-*-*-*-*-*-*-*-*-*   クレンペラーにとって得意曲だったようで、EMIへの正規録音は2つだけだが、ライブ音源が多数あり、映像も残っている。 EMIに残されたもう一つの音源は、1955年のモノラル録音で、 これでも堂々として聴こえるが、今回取り上げる音源より4分も短い。 EMIの音源なら、1955年の方が好みというか、クレンペラーにとって屈指の音源ではないかと思っている。 楽曲へのアプローチは1959年録音と変わりない...

メータによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』(2002年録音)

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ズービン・メータ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団他。  2002年の公演からの編集物。   メータは、1998〜2006年にかけて、この劇場の音楽監督だった。その時期の録音。当時メータは円熟の66歳。   *-*-*-*-*-*-*-*-*-*   メータの演奏様式は完成されており、 オーケストラのことも掌握できている感じだが、音楽そのものが訴求してこない。  読みが浅いとか、表面的とかではなく、いろいろ削ぎ落とした純度の高い音楽なのだけど、割り切りよく削ぎ落とし過ぎでは?という感じ。 なめらかで透明度の高いサウンド、スムーズで機能的なアンサンブル、ほんの少し生々しい響きを帯びた金管パートあたりが主成分。 この透明感と滑らかさを両立させたアンサンブルは、容易に到達できないような、洗練された領域なのだろうが、かと言って官能的と呼べるような域には達していない(“まじめさ”ゆえかもしれない)。 感情表現もあるにはあるけれど、おおむね歌手たちに任せていて、それに寄り添うくらいの濃さにとどまっている。 もしかしたら、知的な抑制を働かせているのかもしれないが、一歩どころか、三歩も四歩も距離を置いている感じがもどかしい。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* そこそこ動的ではあるけれど、血の気の薄い管弦楽のせいで、ドラマとして静的に感じられる。 そしてその影響か、歌手たちの歌唱は個々には雄弁だけど、リアルに響いてこない。 もっとも、脚本の読み替え上演が一般化している時代だけに、こういうのが舞台の演出にはピッタリだったのかもしれない(ちなみに、公演の映像も発売されている)。

ゲルギエフによるブルックナー交響曲第5番(2019年録音)

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ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏。 2019年、ブルックナーゆかりの聖フローリアン修道院でのライブ演奏(編集物)。 ゲルギエフは、2015年9月より同オケの首席指揮者を務めており、すでにブルックナーの交響曲全集を完成させている。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 以前、ゲルギエフの指揮によるワーグナーを聴いたことがあり、音符をのっぺりとつなげて歌わせる手法に違和感を覚えた。あんな感じだと嫌だな、と思いながら聴き始めたが、不安は的中しなかった。 豊かな響きのせいで、当たりはずいぶん柔らかいが、端正でメリハリもある。造形は柔構造で、ガッチリとしたものではないが、安定感はある。 本場風のテイストとは異なるものの、異国情緒がことさらに強いわけでもない。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 演奏者も録音スタッフも、会場の豊かすぎる響きを活かすことに意識を向けているようだ。 ゲルギエフは、もともとサウンドを形成する能力の高い指揮者だが、自分らしさを活かしつつもそれを前面に出さないで、オーケストラとの共同作業を成功に導くことに力を注いでいる感じ。 本来オーケストラ音楽に不適なレベルに豊かな響きの代償として音が濁るのはしかたがないけれど、そんな中でオーケストラを繊細にコントロールして、肌理のある音楽に仕上げている。 指揮者の“色”より“腕”を感得させてくれる音源だと思う。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ミュンヘン・フィル視点に立つと、たとえ響きの面でやっかいでも、作曲者ゆかりの会場での演奏記録には、意義があるのだろう。 しかし、エピソード性にこだわるなら、ローカルな味わいに100%浸れるよう、筋金入りのドイツ系指揮者に棒を託してほしかった(誰が適任かはわからないが)。 ゲルギエフは首席指揮者として見事に腕前を聴かせているし、もしかしたらこの仕事を楽しんだかもしれないが、この人の実力を堪能するなら、音楽的な意味でまともな会場が望ましいと感じた。