投稿

2015の投稿を表示しています

ショルティによる、R.シュトラウスの楽劇『サロメ』

イメージ
1961年のセッション録音。 記事のタイトルは「ショルティの~」としたけれど、この音源の売りは、ショルティより、ニルソンとウィーン・フィルかもしれない。 この楽劇の最大の魅力は、魔術的な管弦楽法だと思うので、わたしはオーケストラ中心に聴く。 ただ、この楽劇が成立するためには、この豪奢で多彩な管弦楽とつりあう歌手が必要で、その点でニルソンは心強い存在。 ニルソンの強い歌唱は、サロメの役柄のイメージとは一致しないかもしれない。 ただ、腰の弱い歌いっぷりでは、ショルティの繰り出す剛毅な管弦楽と渡り合えないだろう。 * * * * * 1960年代前半のショルティというと、各パートをむき出しにするような硬質なサウンドと、荒ぶるような表現が目についた。 そういうやり方が、しっくりくる曲目は限られていると思う。サロメの音楽にしっくりきているかというと、聴き手によって判断は分かれるかもしれない。官能性とかは微塵も感じられないから。 個々のパートを浮き彫りにするために、弦パートの露出を抑えていて、そのぶん流動感とかうねる感触は後退している。金管を、強いアクセントで、野太く鳴らしがちなので、トゲトゲしさが付きまとう。 ただ、このめまぐるしく響きが錯綜する音楽において、ショルティの並外れた耳の良さと統率力には、目を瞠るものがある。 精密であることと荒々しいことが両立していて、そのことが、作品の特徴を引き出す方向に作用していると思う。濃密な管弦楽をわかりやすく聴かせるし、この作品に内包される狂気じみたものを、生々しく感じさせてくれる。 * * * * * ウィーン・フィルに特別に思い入れはない。ただ、ショルティの過激な演奏様式を程よく緩和して、しなやかさと艶を加味しており、この音源の魅力を高めるのに、大きく貢献している。 また、ショルティとの協演のおかげで、ウィーン・フィルの機動性の高さが如実に表れている。 相性が良い、というのとは違うけれど、この音源に関しては、お互いにメリットのある組み合わせのような。

グリュミオーによる、ブラームスのヴァイオリン協奏曲(1958年)

イメージ
ヴァイオリンはアルテュール・グリュミオー。 伴奏はエドゥアルド・ヴァン・ベイヌム指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団。 1958年のセッション録音。グリュミオーが30代後半のときの録音。 ベイヌムは、1945年から同オケの音楽監督だったが、この録音の翌年に急逝した。 * * * * * グリュミオーは、フレーズの線を端正に浮かび上がらせつつ、流暢に歌わせる。響きの濃淡は控えめなので、品良く聴こえる。 それでも、緊張感は一貫していて、曲にふさわしい強さも備えている。 端正な美音系のヴァイオリンで、線は太くないけれど音はよく通る。 第三楽章は、より奔放な表現がふさわしいと感じるけれど、先立つ2つの楽章は歌心に魅了される。 ダイナミズムは控えめなので、さらに上を行く演奏が他にありそうな気がする。でも、他と聴き比べると、意外とこっちのほうがしっくりくる。 この曲の叙情的な側面を、肩肘張らないで、等身大で聴かせてくれる感じ。 * * * * * ベイヌムは、伴奏に徹している。節度があって、演奏のやり方によっては交響曲っぽく響きかねないこの曲を、協奏曲らしく聴かせる。 サウンドは心持ちふくよかだけど、アンサンブルは引き締まっていて機敏。出すぎず、隙無く独奏につけている。 艶っぽさとか面白味のある音楽ではないけれど、美音&端正なグリュミオーとの組み合わせは好感触。

セトラクの、ショパンのピアノ協奏曲第1番(タウジヒ編曲)

イメージ
1987年のセッション録音。 ピアノ独奏は、トルコ出身で、フランスで活動していたらしいピアニストのセトラク(1931 - 2006)。 ご覧のように、CDには、SETRAKと素っ気なく表記されているだけ。 管弦楽はヴォイチェフ・ライスキ指揮 バルト・フィルハーモニー交響楽団。 * * * * * ここで演奏されているのは、ショパンの楽曲を、タウジヒが編曲した版。 おそらく、この音源の最大のセールスポイントは、タウジヒ版を聴けるところにあるのだろう。 ただ、わたしにとっては、この音源の最大の魅力はセトラクの演奏で、最大の欠点はタウジヒの編曲。 タウジヒの編曲は、わたしの耳にはヘンテコに響くのだけど、それは原曲に耳が慣れているせいかもしれない。 というか、仮にショパンの管弦楽が下手だとしても、こっちはそれに慣れてしまっているから、今さら編曲などおせっかいでしかない。 まあ、19世紀に生きていた人に文句を言っても仕方がないわけだけど。 * * * * * ゆったりしたテンポ、深い呼吸、ルバートを多用しながら、ロマンティックに歌い上げていく。 音の粒立ちが良くて、一音一音が磨かれている。歯切れがよいから、粘っこくは感じない。 キレとかダイナミズムはあるけれど、畳み掛けるような技ではない。 * * * * * とりあえず、叙情的なフレーズを歌い上げるときの深い息遣いとか、一音一音をきらめかせながら、されらをスムーズに束ねるセンスとかが、かなり好み。音楽を息づかせるやり方が抜群にうまい。 この曲の第一楽章は、聴いていて中だるみを覚えることが多い。この音源のような、じっくり型のアプローチは特に危険なはずだけど、セトラクの彫り深い表現に聴き入ってしまう。 * * * * * ニュアンスたっぷりに歌い上げるけれど、クリアな響きのせいか、ウェットさとか、粘り気は感じられない。 そのせいか、この曲に込められているとされる、故郷への惜別の思い、みたいな鬱系の味わいは乏しい。 むしろ、屈託なく曲の美しさに浸る感じ。 * * * * * 第3楽章になっても、じっくりペースは変わらない。ズーッとこのペースなので、少し飽きる。

ドホナーニのブルックナー交響曲第5番

イメージ
1991年のセッション録音。 ドホナーニというと、ウィーン・フィルと録音したR.シュトラウスでの精密なオーケストラ・コントロールに、強烈な印象を受けた。 このブルックナーも精密な演奏だけど、少し印象は違う。 オーケストラはクリーヴランド管弦楽団だから、ウィーン・フィルよりさらに精密感が上がりそうな気がするけれど。 この印象の違いは、たぶんオーケストラの技術とか持ち味とは別のところにある。 ドホナーニに意志によるのだろう。 * * * * * 感情面で入り込むことはなく、ドホナーニの尺度で楽曲の書法とか構造を端正に明瞭に浮かび上がらせる。 ただ、サウンドの響かせ方はけっこう豊か。耳をそばだてると精密さを聞き取ることはできる。でも、個々のパートの輪郭をそれほどクッキリとさせていないから、耳の当たりは柔らかい。 おかげで、聴き通しやすいし、けっこうなスケール感が出ている。 各奏者に、力を抜いて、柔軟に、鋭敏に奏でさせている感じ。豊かで広がる響きの中に、繊細な表情が浮かび上がる。 豊かさと細やかさを両立させている。ただし、響きに芯の強さみたいなものは感じ取れない。 * * * * * ブルックナーの音楽に、宗教を連想させるようなテイストがあるとして、馥郁とした響きがそれに関係しているとしたら、この演奏の音響は、大きくは外れていないように感じる。 あるいは、聖歌の朗唱を連想させるように歌いまわすことが、それに関係しているとしたら・・・ドホナーニの歌いまわしは軽くて薄いので、外れているかもしれない。 ドホナーニがクリーヴランド管と残した他の録音からも、同じような傾向を覚える。 ブルックナーだから、このように演奏しているというより、これがこの時期のドホナーニのスタイルなのかもしれないし、あるいはオーケストラやホールの特性との間に見出した一致点なのかもしれない。 * * * * * 耳の当たりは柔らかくてドギツイところのない演奏様式だけど、この指揮者の美意識が隅々まで浸透している。少なくとも堅牢な構成美が魅力の第5番については、面白い仕上がりになっていると思う。

ブラームスの弦楽四重奏曲第1番、アルバン・ベルク四重奏団

イメージ
全集(と言っても3曲しかないけれど)から。1991年のセッション録音。 そもそも、室内楽を聴くようになったのは、ここ2年くらいなので、語れるほどの経験値がない。 ブラームスの室内楽作品の中では、弦楽五重奏曲とか弦楽六重奏曲の方が聴きやすい。 特に気に入っているのは、弦楽五重奏曲第2番の第1楽章。良いのは第1楽章だけだけど。 弦楽四重奏曲は、渋いブラームスの室内楽作品の中でも、特に渋いジャンルの一つと思う。 もともと、魅力的なフレーズを作るのが不得手な作曲家と思うけれど、曲によっては、彼なりの親しみやすさとかサービス精神を発揮している。 でも、弦楽四重奏曲からは、そういう印象を受けない。彼なりの充実した音楽を作り上げることに、邁進している。人懐っこさではなく、手ごたえで押し切ろうとしているような。 ブラームスにとって、弦楽四重奏曲というのは、そういうジャンルなのだろう、と勝手に考えたり。 * * * * * 3曲の弦楽四重奏曲の中で、第1番は初めて聴いたときから好印象だった。 緊密な書法と全曲を貫く暗くシリアスなトーン。 特に第一楽章での、張り詰めた中での畳み掛ける展開はしびれる。 交響曲第1番なんかにも感じられる、傑作を作り上げようとする、過剰な気迫がこもっている。 この過剰さ、息苦しさは、音楽としては欠点にもなりうるだろう。 私見では、ブラームスは、大作曲家としては、楽想の豊かさとか、展開の大胆な面白さみたいところが弱い。 そんな中で、この曲のような、シリアスで激情的な表現は、比較的様になりやすいと思うのだ。 もっとも、べートーヴェンのように、暗い激情を解放のカタルシスに展開させるような芸当はできないから、終始閉塞していて、心地よい音楽ではないけれど。 まぁ、ブラームスはそれでいいと思う。それがいいと思う。らしいと思う。 * * * * *  ブラームスの音楽では、機能美みたいものは前に出てこない。でも、緊密で練れた書法は彼の特長。 優れて技巧的だけど、技巧のための技巧みたいになるのは嫌なのだろう。 演奏者には、作曲家が目指したであろう気分とかニュアンスとかを表出しながらも、その技巧の冴えを楽しませてくれる演奏を期待したい。 アルバン・ベルク四重奏団による演奏は、楽曲の機...

アレクサンドル・タローの、バッハ『ゴルトベルク変奏曲』

イメージ
アレクサンドル・タロー(ピアノ)による、J.S.バッハの ゴルトベルク変奏曲 BWV988。 2015年のセッション録音。 タローは、1968年生のフランスのピアニスト。 この演奏は、75分かかっているので、たぶん作曲者指示の反復を励行しているのだろう(いちいち確認していない)。 * * * * * タッチのニュアンスを多彩に使い分けているけれど、ダイナミックな表現力とか、響きの量感とかはごくごく控えめ。 音の扱いは繊細だけど、極端な弱音は(強い音も)使わない。音の粒立ちをある程度そろえたうえで、響きのニュアンスで表現を作り上げる。 一音一音は、クリアでありながら柔らかみがある。それらが親密に噛み合って、淀みない流れを生み出している。 リズムは活き活きとしているし、キレもある。また、フレーズの歌い回しとかバランスの作り方などに独自の味付けが散見される。 しかし、全体の流暢な進行の中に、自然に溶け込んでいる。 * * * * * 手指の運動量はけっこうありそうな演奏ぶりだけど、品良くいくぶん淡々と進められる。ときに静けさすら感じさせる。 チェンバロ寄りではないし、かと言ってピアノの性能を積極的に引き出すような表現でもない。 どちらかというと穏やかな個性だけど、確固として美意識があって、ピアノを使ってそれを具現化している、という印象。 幅広い層にアピールするような持ち味ではないと思うけれど、この穏やかな純度は、心地よい。

クラークス・グループによる、オケゲムのミサ・ミ・ミ

イメージ
クラークス・グループは、1990年代にオケゲムのミサ曲を全曲録音した。 ルネサンスの音楽に入れ込んでいた頃は、まだそれらの録音は現役だったので、一通り買い揃えた。 それら一連の録音が廃盤になった後、主要なミサ曲に絞った5枚組みが、『オケゲム・コレクション』とかいう名前で販売されたけれど、今ではそちらも廃盤になっているようだ。 そうした現実を嘆くほど、オケゲムの音楽に通じているわけではないけれど、特別に愛着を持っている作曲家の一人ではある。 * * * * * ミサ・ミミは、オケゲムの代表作とされるのだけど、どちらかというと苦手な部類。 キリスト教に関心がなく、純粋に娯楽としてミサ曲を聴くときに、ポイントになるのはクレドだと思う。これは、あくまでもオケゲムが作ったような実用的なミサ曲の場合に限っての話だけど。 クレドは、ミサ曲のど真ん中に配置されていて、歌詞は長く多岐にわたっている。儀式としてのミサにおいて、中核をなす部分のようだ。 しかし、歌詞の内容は詰め込みすぎで、歌の歌詞としてはまとまらない。特に後半が。思い入れをもって一つ一つの詞を受け止められる聴き手ならともかく、単純に楽しみとして聴くには、冗漫に響きがち。 ミサ・ミミは、私見ではその典型。冗漫なりに、ときめくような瞬間があればいいのだけど、そうでもない。 などとケチをつけながらも、オケゲムっぽいニュアンスは好きなので、毎度期待を持って聴く。 しかし、今日も、クレドに入ってしばらくして、意識が音楽の流れから離れていることに気がついた。 * * * * * クラークス・グループの演奏は生真面目で端整。艶とか官能性みたい物はない。面白い演奏ではないと思う。 ただ、楽曲を飾り立てないで、ありのままを聴かせようというような姿勢がある。自己顕示の前に、楽曲そのものの魅力を伝えたい、みたいな意志が感じられる。 そして、その意志を実現できるだけの技を持ち合わせている、と感じる。 音楽家への賞賛の言葉として適当ではないかもしれないけれど、"信用できる"演奏集団であり、演奏だと思う。

ショルティのワーグナー楽劇『パルジファル』

イメージ
ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団他。 1971~1972年のセッション録音。 作り物めいた質のサウンドで、特にヘッドホンで聴くとイタイ。ただし鮮明。 ショルティは、『ニーベルングの指環』(1958〜1965)、『トリスタンとイゾルデ』(1960)、『タンホイザー』(1970)、『パルシファル』(1971〜1972)、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1975)、『ローエングリン』(1985)を、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とセッション録音している。 『さまよえるオランダ人』(1976)のみシカゴ交響楽団と録音。 :::::::::: ショルティの管弦楽には独特のたたずまいがある。 オーケストラと歌手・合唱による響きの全体を聴かせるというより、管弦楽のサウンドについて確固とした美意識があって、そこは妥協せず貫徹している。 個々のパートの明解な輪郭と、クリアな響き。舞台上で何が起こっていようと、歌手たちがどう歌っていようと、管弦楽の質感はブレない。 とは言え、伴奏として立派に成立している。歌手や合唱を無視しているわけではない。ダッイナミックな場面でも、歌手を威圧することはなく、きっちりエスコートしている。 :::::::::: あいまいさのない明解な表情と、透明度の高いサウンドが基調だけど、強弱とか剛柔のコントラストが強めなのは、ショルティらしさだろう。 ただし、1950~60年代の録音に比べると落ち着きが加わっている。そして、こうした変化は、この楽劇にとってプラスに働いている。 激しい場面でも濁ったり刺々しくなるほどは攻めない。攻撃的なまでのダイナミズムは影を潜めている。 とは言え、他の指揮者に比べるとコントラストは強めなので、凛とした緊張感や骨格の逞しさとして、演奏を特徴づけている。 また、ベースとなっている落ち着いた歩調も堂に入っている。 :::::::::: ただ、響きの質感は全編通して一貫しているので、光と影の対比みたいなものは乏しい。 たとえば第二幕に入っても、明解さクリアさはそのまま維持されており、暗い調子を帯びるというようなことはない。 第三幕の終盤でも、聖なる法悦みたいな調子を帯びることなく、むしろ冴え冴えと響く。 こういう劇音楽を指揮するには、ショルティの音楽性はいささか剛直なのだろう。 それで...

アンチェルのストラヴィンスキー『春の祭典』

イメージ
指揮はカレル・アンチェル、管弦楽はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団。 1963年のセッション録音。 アンチェルは、1908年チェコ出身の指揮者。ユダヤ系。 1950〜1968年にかけて、同オーケストラの首席指揮者を務めた。 1968年に亡命し、1973年にカナダで病没。 :::::::::: クリアで見通しの良い響き、明解なテクスチュア。オーケストラの機動性は予想以上にハイレベル。 各パートは均等に近いバランスで、軽快かつ俊敏。ティンパニなんかもかろやかにタイト。 オーケストラのサウンド自体は、研ぎ澄まされた感触。ただし、ホールの音響特性や、響きを多めに取り込んだ録音のせいで、痩せた音楽にはなっていない。 盛り上がる場面では、響きの圧力を高めるより、めくるめくアンサンブルと歯切れの良さで高揚させる。 その一方で、個々のパートの歌わせ方は、こぶしを回したり音を震わせたりして、生気を表出させる。このあたりは、アンチェルの嗜好というより、オーケストラの自発性かもしれないが。 また、全体としては薄味だけど、場面毎の空気感を、さりげなく、しかし確実に伝えてくれる。 :::::::::: 演奏技術は目を見張るレベルだけど、洗練された機能美みたいな質感とはちょっと違う。 アンチェルは、オーケストラに高度なアンサンブルを要求しているけれど、均一に磨かれたスタイリッシュな美しさより、生々しさとか生気とかに軸足を置いている。

トルプチェスキ、ペトレンコによるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番

イメージ
ピアノはシモン・トルプチェスキ。管弦楽は、ワシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団。 2009年録音。 :::::::::: トルプチェスキは、軽いタッチで小気味よくキビキビと弾く。ピアノから引き出す響きは、色彩的できらびやか。 一音一音のニュアンスに気を遣っている。複数のフレーズを主従関係の中で整理するより、多彩に絡み合わせて、生気とか色彩感を存分に引き出す。 軽快で流暢だけど、呼吸感があって、気持ちよく入ってくる。 第一楽章のカデンツァあたりは、力押しではなく、畳み掛ける勢いとか、めまぐるしい変化で聴かせる。 :::::::::: トルプチェスキの芸風を満喫するなら、独奏曲の方がわかりやすいかも。 この曲は協奏曲としては管弦楽が厚めで、録音はピアノとオーケストラの全体の響きを重視するような録り方なので、この音源ではじめてトルプチェスキを聴くのは微妙かもしれない。 :::::::::: 管弦楽について技術面での不満はないけれど、響きがモッサリしている。響きの豊かな録音があいまって、独奏を覆ってくすませている。 聴く限り、オーケストラはそんなに大きな音を出しているように聴こえないので、録音の質とかホールの音響特性がこちらの好みと違うのかも。 この曲の音源を聴くときは、管弦楽に不満を感じることが多い。

ハイティンク、ロンドン交響楽団のブラームス交響曲第1番

イメージ
2003年のライブ録音。 遅すぎず速すぎずのテンポ。安定したリズムの土台にして、画然としたブラームスが展開される。 恰幅の良い作品像ではあるけれど、特に巨匠風とか、スケール豊かというようなことは無い。 骨格はガッチリと、各パートの輪郭はクッキリとしているけれど、響き自体には軽み、柔らかみがある。 堅苦しいけれど、重苦しくはない。 個々のパートの線は画然として平明な動き。ケレン味をまったく感じさせない。 ただし、響きを重ねるバランスは融通無碍。音楽の推移や表情変化を、この上なく明解に描き出す。 このあたりの響きの制御とか、オーケストラを統率する手腕が、ハイティンクの見せ場のひとつと思うのだけど、派手なスタンドプレーは一切ない。 作品の仕組みを明解に鳴らしきることに徹するようなアプローチ。 終楽章の雄渾なフィナーレにおいてもあおりは一切なし。恰幅の良い造形なので、弱弱しいとか、線が細いとかはないけれど、高揚とか燃焼といった種類の表現とは無縁。作品書法を浮き彫りにすることに徹する。 オーケストラの技術は優れているし、表現力は高そう。というか、非力なオーケストラでは、ハイティンクの演奏スタイルは成立し無さそう。 残響の薄いホールの響きが、ハイティンクの表現をいっそうハードボイルドに聴かせる。 演奏者の美意識とか、思い入れとか、サービス精神みたいなものはまるで伝わってこない。 この音楽に演奏者の臭いがあるとしたら、楽曲を知り尽くし、演奏し尽くしたような、熟練の香りくらいだろうか。それだって、ごく控えめだけど。 演奏行為における演奏者の創造性の価値を、必要最小レベルにしか認めていないような演奏姿勢を感じる。わたしの好みからすると、ハズレになる確率が高そうだけど、この音源は例外。 なぜだろう。 この交響曲からは、力みとか息苦しさを感じる。そこを強調した演奏は、聴いていてしんどくなる。 かといって、軽やかに演奏されると、どこか空々しく聴こえてしまう。 この演奏は、作品の力みとか息苦しさを意識させるけれど、聴き手を圧迫することはない。そういう味付けが、今のわたしにはしっくりくるのかもしれない。

ヴァントのブラームス交響曲第3番(1983年録音)

イメージ
ヴァントの、この交響曲の録音は3つあるようで、今回採り上げるのは、2回目のもの。セッション録音。 現時点での、わたしの中でのヴァントの存在感は、ある面では最高レベルの手腕の持ち主だけど、キャパシティの狭い指揮者というところ。 ここでいうキャパシティの狭さというのは、ブルックナーはすばらしいが、他の作曲家との相性は・・・というような意味ではない。 誰の作品を演奏するにせよ、ヴァントは"感情表現"をできない、あるいはやらない指揮者だ。 そのために、ドイツ・ロマン派の演奏を聴いていると、何かが足りない気分にさせられることが多い。 手っ取り早く"感情表現"という言葉遣いをしたけれど、もう少し噛み砕いていうと、場面毎の色調の変化のバリエーションが狭いということ。これの変化が多彩だと、感情表現のように感じられることが多いので、あえて"感情表現"と言ってみた。 その結果、ヴァントのこのブラームスは、楽章同士のキャラの対比が弱くなっている。たとえば、第2交響曲は、演奏によっては楽章ごとの色合いがはっきりと異なるけれど、ヴァントの演奏ではそれが乏しい。 もちろん、各交響曲の対比についても同じことが言える。 大指揮者、スター指揮者は、強烈な持ち味を持つことが多いので、これと同じ現象が起こりやすい、と思う。 ただ、ヴァントの場合、個性の強さとは別に、上で"感情表現"と述べた種類の表現力が乏しく感じられるところは事情が異なる、ような気がする。 同じ北ドイツ放送交響楽団の音源ということなら、シュミット=イッセルシュテットが指揮した同じ曲の録音を聴くと、あの演奏なりの独自の味わいはあるけれど、同時にわたしがこの交響曲について知っている要素は一通り網羅されている。 もし、この交響曲を知るために、1つの音源しか聴くことができない、みたいな状況に置かれたとしたら、 楽曲についてより多くの情報を得られるのはシュミット=イッセルシュテットの方だと思う。 もちろん、ヴァントの流儀だからこそ得られるものもある。作品書法の鮮明さとしては最高の純度に到達していると思う。 ヴァントはすべて声部を精緻に浮き上がらせる。それだけなら珍しいやり方ではないけれど、彼のは洗練度が違う。精緻なたた...

シャイー、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスOのブラームス交響曲第3番

イメージ
現代のスター指揮者たちは、概ねサウンド作りの才が秀でていると思うのだけど、シャイーは特に感心させられるひとり。 綺麗だとか、センスが良いというにとどまらず、創造性を感じる。こういうタイプの美音があるのだなぁ~、と感じ入ってしまう。 この全集録音は2012-13年だけど、シャイーは、1990年代の初め頃に、コンセルトヘボウoと、ブラームスの交響曲全集を録音している。 旧録音でも響きの色彩の鮮やかさに感銘を受けたけれど、新録音とは響きの質が違っているように聞こえる。 質感は異なるけれど、どちらも香ばしいサウンド。 ブーレーズのように、異なるオーケストラを指揮しても、ブーレーズ的美音を響かせる達人がいる。 シャイーだってそいう芸当はできるのかもしれないけれど、そういうことよりも、自分の感性とオーケストラの持ち味が合わさったからこそ、の響きを追求しているような気がする。 この音源の響きは、艶やかでカラフルでありながら、そこに落ち着いた色合いの渋みと、柔らかい厚みが合わさって、特有の心地良さがある。 シャイーは、どちらかと言えば、各パートの表情を描き出しながら、それらを編み上げて全体像を作り出しているようなやり方。 弦とか木管は言うに及ばず、大きな音のでる金管やティンパニあたりも、他のパートを圧することなく、スリムに響かせて、他のパートと絡み合わせる感じ。絡み合わせる中で、活き活きとした多彩な表情を作り上げていく。 軽快でキビキビとした身のこなしが、活き活きとして多彩な印象をいっそう強めているけれど、そんな中にも、均整のとれた美しさみたいなものがある。 こういうやり方は、巧緻な作りと均衡美の優先度が高いことの裏返しとして、音楽のダイナミックな息遣いとか、大きなうねりみたいなものを演出しにくくなる、たぶん。 内面のドラマ、みたいな方向でブラームスの交響曲を楽しみたい人にとっては、物足りなさが残るかもしれない。 そもそも、ブラームスの交響曲は、何らかのドラマの表象なのか。それとも、精巧に編み上げられた、管弦楽法の工芸品なのか。 わたしは、どちらの性格も兼ね備えていると思っている。 だから、シャイーのやっていることが、楽曲の素晴らしさを際立たせているところもあれば、喰い足りない面も無きにしも非ず。 ただし、演奏者としてのシャイーに不...

ティーレマンによるブラームス交響曲第2番(2013年)

イメージ
好感度  ■■■■ ■ ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンのブラームス交響曲全集から、交響曲第2番を聴いた。2013年のライブ録音。 この全集は2012〜2013年に録音され、いずれもライブ録音。 ちなみに、ティーレマンは、2012年からこのオーケストラの 首席指揮者に就いている 。 * * * * * 余裕のあるスケールの大きな枠組みの中で、オーケストレーションを解きほぐして、その一つ一つをしっとりと艷やかに響かせている。 色合いの変化が鮮やかで、豊かな表現力。ただし、荒々しい音、濁った音は皆無。あくまでも、響きの洗練を追求している。 こうしたアプローチは、今どき珍しくないけれど、名門オーケストラの持ち味があいまって、落ち着いた色合いの艶は好ましい。 テンポを自在に伸縮させて、じっくりと濃やかに聴かせる。前のめりに煽って、息苦しくすることはない。 思い入れて粘るというより、冷静に磨き上げ構築していく感じなので、もたれることはない。 * * * * * 音の出し方は軽めで、量感もほどほど。しかし、立体的かつスケール豊かな造形と、濃やかな表現力のおかげで、押し出しは立派。 第1〜3楽章が、ジックリと描きあげられるのに対して、終楽章はオーケストラの上手さ機動力を引き出して、胸のすくような仕上がり。 精細感や響きの艶を保ったままで、壮快に畳み掛ける。お見事。 * * * * * 指揮者の美意識が強く出た演奏なので、好き嫌いは分かれそうだけど、演奏様式には一貫性があるし、堂々として、巧み。