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ギーレンによるブラームスの交響曲第2番

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ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団の演奏。 2005年のセッション録音。 * * * * * 柔軟性のあるフレージングに、自然な推移。ブラームスの重層的な響きを明晰に、しかし慈しむように丁寧に聴かせてくれる。 サウンドの透明度が高く、粘らないので、感触自体はあっさり風味。 この交響曲は、ブラームスの4つの交響曲の中では明朗な方だけど、前半の2楽章には憂愁がそれなりに濃く漂う。 ギーレンは、音楽の息遣いをしっかりと表現しつつ、気分的な要素は漂白している。 おかげで、陰影みたいなものは乏しいけれど、その分聴き疲れはしない。繰り返し聴くための音源としてはなすかなかの佳演。 * * * * * アンサンブルを解きほぐしてしまうのではなくて、響きの重層感を保ったうえで、明晰に聴かせようとしている。 そのあたりは、ラテン系指揮者たちの明晰さとは質が違っている。 オーケストラは、ギーレンの要求に応えて、質のそろったサウンドを生み出しているけれど、洗練度はほどほど。指揮者の方向性を納得させるくらいの力量はあるけれど、鮮度はいまいちか。 第四楽章にあたりでは、明晰さを保ちつつ湧き上がる、みたいにはいかない。指揮者の統率力のせいか、オーケストラの機動力の機動力の限界かは判断できない。 ただ、こういう素朴な味を程よく感じる余地はあると思う。

ヴェンゲーロフ、バレンボイムによるブラームスのヴァイオリン協奏曲

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協奏曲は1997年のライブ録音。 ヴァイオリンはマキシム・ヴェンゲーロフ、管弦楽はダニエル・バレンボイム指揮のシカゴ交響楽団。 ちなみに、併録のヴァイオリン・ソナタ第3番のピアノもバレンボイム。 * * * * * 趣味の悪いジャケ写への悪印象が先入観になっているかもだが、印象はイマイチ。 不満があるとすれば、管弦楽の方。この曲の場合、管弦楽は伴奏以上の役割を担っている。 原因はわからないけれど、色調が乏しい。オーケストラの持ち味だろうか?技術的にはうまいし、丁寧に演奏されている。 指揮者の音楽性なのだろうか?バレンボイムは、骨太で柄の大きな音楽を要求しつつ、細部の磨き上げも行き届いている。 オーケストラはそれにしっかり応えている。パートの一つ一つはニュアンスを込めて演奏できている。 でも、それぞれのパートがむき出しのままで、ブレンドされないので、無骨で場面による色合いの変化が乏しい。 そのくせ、伴奏らしい控えめさがないので、何かしら気に障る。 併録のヴァイオリン・ソナタ第3番の、バレンボイムのピアノはニュアンス豊かで好印象。ということは、管弦楽の響きの作り方がしっくりこないということか? そういう質の音楽を狙ってやっていて、こちらと相性が悪いだけかもしれない。 * * * * * 線の太い安定した美音が特徴で、作品解釈は素直。さすがの安定した腰の強さで、健康優良児的。これといった不満を感じなかった。 ただ、この曲の場合、個人的に、ヴァイオリン・ソロを切り離して評するのは難しい。

シェリングによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲

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1965年のセッション録音。  ヴァイオリン独奏はヘンリック・シェリング。管弦楽はゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮のロンドン交響楽団。 シェリングを、そんなによく聴いているわけではないけれど、漠としたイメージはあって、そのイメージからして楽曲との相性は気になった。 実際に聴いてみると、思っていた以上に、予感通りの演奏になっていた。ここまでくると、その演奏様式の揺ぎ無さに感心してしまうほど。 * * * * * フレーズの伸縮とか抑揚は乏しく、歌い回すような感覚はしない。淡々と端正に、一節一節のニュアンスを聴かせる。 曲想そのものは起伏に富んでいると思う。ロジェストヴェンスキーの指揮は、そういうのに反応しているけれど、シェリングは、ポーカーフェイスで自分のスタイルを貫く。 感情表現に対するこれほどの淡白さは、特異かも知れない。単純に理知的と片づけられないレベル。 * * * * * ロジェストヴェンスキーは、盛り上がる場面で少々荒々しい響きを作ったりする。そういうところから、指揮者の方は、熱のこもった楽曲として作品をとらえているような印象。 伴奏として節度を保っているので、シェリングとの間にあからさまな齟齬を気取らせない。それでも、高揚する場面では、少し両者の温度差を意識させられる。

ツィンマーマンによるブラームスのヴァイオリン協奏曲

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フランク・ペーター・ツィンマーマンのヴァイオリン独奏、管弦楽はヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。 1995年のライブ録音。 フランク・ペーター・ツィンマーマンを聴くのは初めて。 サヴァリッシュとベルリン・フィルとの組み合わせは珍しいようだ。個人的に、1970年後半以降のこの指揮者に共感を持てないのだけど、実力は否定できない。 * * * * * ツィマーマンのヴァイオリンは、線が細くて、端正で繊細感が強い。響きは、一貫して、湿度と透明感が程よくバランスしている。上品な味付け。 耳をそばだてると、吟味しつくされたような練れた表現が聴こえてくるけれど、全体的に押しが弱いので、漫然と聴いてしまうと、何気なく流れていく感じ。 * * * * * これで管弦楽がゴリゴリだと、ツィマーマンの持ち味が台無しになってしまうけれど、そこはサヴァリッシュなので心配無用。 程々の恰幅はあるけれど、締りのあるサウンドと柔軟なアンサンブルで、ヴァイオリン・ソロにピッタリとつけている。 管弦楽の方も、強く訴求してくる質の音楽ではないけれど、上質感が高い。ヴァイオリン・ソロと方向性が近いので、しっくりしている。 * * * * * そんな中、キビキビとした第三楽章は、ベルリン・フィルの機動力が際立つ。 独奏を押し潰すようなマネはしていないけれど、ここでも大人しめのヴァイオリン・ソロよりも、オーケストラの小気味良い機動性の方が、感覚的に気持ち良い。 個人的には、この点がもっとも聴きどころだったような・・・

ハイフェッツ、ビーチャムによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲

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1935年のセッション録音。ハイフェッツが30代半ばころの演奏。 ヴァイオリン独奏はヤッシャ・ハイフェッツ、管弦楽はトーマス・ビーチャム指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団。 世間一般で、ハイフェッツのこの曲の音源というと、1959年のステレオ録音になるのだろう。録音が良いし。 個人的に、ハイフェッツを聴くのは、モノラル期のセッション録音かライブ録音。断然、その方が面白いから。 * * * * * ハイフェッツというと、とりあえず技術の高さを称賛されるようだ。しかし、このあたりの加減は、わたしにはわからない。たとえば、レーピンやヴェンゲーロフといった現代の奏者と比べて、どちらが上手いのか? ここでのハイフェッツと、別記事のレーピンの演奏とを比べると、精度はレーピンの方が高く聴こえる。 ただ、レーピンが精巧に演奏すること自体を目的としているように聴こえるのに対して、ハイフェッツはもっと別のことをやろうとしているように聴こえる。 別の言い方をすると、レーピンは、こちらの音楽観とかシベリウス観にまったく影響を与えないけれど、ハイフェッツは挑みかかってくるみたいに、聴こえる。 フレーズとかリズムはギュッと引き締まっていて、テンポには畳みかける推進力がある。造形の面では、即物的に楽曲を切り詰めている。 一方、歌いまわしや抑揚の付け方とかは、自在でロマン的。いくぶんウェットな響きで流暢に歌いまわす。 楽曲のロマン性に感応するけれど、造形を歪めるような表現を断固拒否する、という強い意志が伝わってくる。そして、そういう音楽観を表明するために、自分の技術を使っている。 極論めいた音楽観だと思うし、聴いていて心地よいとは限らない。当然、楽曲や聴き手との相性は良し悪しははっきりと出てしまう。 そういうハイフェッツの攻めの姿勢が、流暢さと勢いを兼ね備えた独特の爽快さをもたらす一方、聴き手のイマジネーションを掻き立てる要素は乏しくしている。 * * * * * ビーチャムは、自らが設立して間もない手兵を指揮して、ハイフェッツの推進力のあるペースに合わせつつ、さりげなく力量を示している印象。 これだけ貧しい録音からでも、各パートは表情は明確で、サウンドを通して生気が伝わってくる。 ただ、この貧しい録音で、オーケストラ演奏...

レーピンによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲

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1994年のセッション録音。 ヴァディム・レーピンのヴァイオリン独奏、伴奏はエマニュエル・クリヴィヌ指揮のロンドン交響楽団。 最近のレーピンのジャケット写真と比べると、若いというか、顔がパンパン。 * * * * * しかし、演奏ぶりは、写真の印象とは違って(?)、端正で細やか。 一節一節のニュアンスが、細やかに描き分けられている。どちらかというと繊細方面に傾斜しているけれど、進行に揺るぎがないせいか、ひ弱な感じはしない。 ただ、徹底したコントロールを感じさせるから、こちらも冷静に聴いてしまう。結果として、感情表現の幅は狭い、という印象に。 それが良い悪いではなくて、そういう質の演奏と感じられる。感心はするけれど、感動しにくい。 * * * * *  クリヴィヌらの管弦楽は、後方支援に徹している。盛り上がる場面では力を開放するけれど、全体的に節度正しい。過不足の少ない好サポート。 ただ、この輪郭の淡い暖色系サウンドは、何だろう?ヴァイオリン・ソロを柔らかく包み込む感触は悪くないけれど、全体の響きの中に細かな動きが埋没気味。 これがクリヴィヌのイメージするシベリウスのサウンドなのだろうか? こういうモヤッとしたサウンドが合う楽曲はあると思うけれど、シベリウスにはどうだろう? ロンドン交響楽団の持ち味とは考えにくいから、指揮者か録音スタッフの意図なのだろうけれど。

ヴェンゲーロフによるシベリウスのヴァイオリン協奏曲

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1996年のセッション録音。 独奏はマキシム・ヴェンゲーロフ、伴奏はダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団。 ヴァイオリン独奏もオーケストラも、それぞれ押し出しの良い音楽をやっているけれど、良くも悪くも体育会系。 * * * * * ヴェンゲーロフはかなり攻めている表現。ときにささやくように、ときにはワイルドに。歌いまわしには、だいたんな揺れや伸縮がある。 それでいて、技術的にも音色の面でも、まったく揺るがない。終始、力強い張りがある。 深い息遣いを聴かせるわけではないので、音楽に没入している印象を受けない。物おじなく、大胆に自在に、自分の感性を解放している感じ。聴き方によってはスポーツ選手の美技を楽しむ感覚。 熱演だけど、息苦しさはなくて、スムーズに進行する。 * * * * * 一方、バレンボイムの方は、骨太で堂々とした演奏ぶり。オーケストラの機動力をむき出しにした、骨太で硬質なタッチ。 本場の指揮者たちがこだわるシベリウスらしさみたいなものを一顧だにしないで、かと言ってバレンボイム独自のシベリウス像を形作るでもなく、力でねじ伏せるような感じ。 別に本場風の演奏でなくとも良いけれど、これだけ自己主張が強いのに、曲想への思い入れが感じられないので、居心地はよくない。

レーピンによるブラームスのヴァイオリン協奏曲

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2008年8月のセッション録音。 ヴァイオリン独奏はヴァディム・レーピン。伴奏はリッカルド・シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。 レーピンは1971年ロシア出身。 * * * * * ここでのレーピンは、すごいポテンシャルを聴かせる。技巧として優れているというにとどまらず、それが表現力に昇華されている。 全曲通して一貫した調子を保ちながら、絶えず細やかに表情を変転させていく。その細やかさ加減が、他のヴァイオリニストよりレベルが高くて、繊細な震えとかおののきみたいなニュアンスまで、完全なコントロールの下で繰り出すことができる。変幻自在の表現力だ。 だからと言って、この曲の演奏として満足できるかというと、難しいところ。細部の作り込みの徹底した細やかさの反面、マクロ的な起伏とかうねりが見えてこない。 そのために、一歩ひいて演奏全体を俯瞰すると、いささか平板に聴こえてしまう。 起承転結みたいな展開無しで、ひたすらに精巧な部分が連なる、みたいな音楽になっている。 この演奏家が目指しているものと、わたしが期待していることにズレがあるのだろう。 * * * * * シャイーの管弦楽は、自らの美意識を響きとして体現できてしまう水準に達していて、素晴らしい。全体としては渋めの落ち着いたサウンドながら、色彩感が豊か。また、アンサンブルは軽快かつ鋭敏だけど、全体の響きはほどほどに恰幅が良い。 一昔前に比べると、けっこう腰の軽いカラフルなブラームスだけど、上質感は高い。

ヴェンゲーロフによるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番

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1993年の録音。伴奏はクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。  ヴェンゲーロフを聴くのは初めて。ヴェンゲーロフは1974年生まれなので20歳前後の録音。 ちなみにこのヴァイオリニストは、肩の故障で2008~2011年にかけて、活動を停止していたらしい。 * * * * * 線の太いシットリ系美音が一貫している。 この協奏曲はそんなに大規模ではないけれど、曲想は力強い。このくらい線が太い方が、しっくりとくる。 表現としてはいたって中庸。高度で安定した技術と、線の太い美音で、ストレートに聴き手に迫ってくる。激しい表現とかはないけれど、濃く太い響きを繰り出し続ける腰の強さを感じさせる。 ただ、この協奏曲ならではの楽しみは弱いかも。 この協奏曲は、同じ音源に収録されているメンデルスゾーンの協奏曲あたりと比べると、中身が薄い。できれば、そこのところを演奏者に補強してほしいところなのだけど、 その種のあざとい演出はない。良くも悪くもストレート。地力でグイグイと迫ってくるやり方。 結果として、 ヴェンゲーロフの表現力を堪能したけれど、楽曲を満喫した手ごたえはほどほど。 * * * * * マズアは、いかめしい風貌だけど、その音楽は平明。メインのフレーズを前面に出して、いたってシンプルな流れを作り出す。そして、その流れを豊かな響きで彩る。 管弦楽のみの楽曲だと、わかりやすい反面、平板に感じさせられることが多々ある。 この音源では、 ヴェンゲーロフが音楽に芯を通しているから、そうした不満はなく、むしろマズアのうまさを意識させられた。

チョン・キョンファとケンペによるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番

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1972年のセッション録音。管弦楽はルドルフ・ケンペ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団。 チョン・キョンファの存在はずいぶん前から知っていたけれど、ちゃんと聴いた記憶がない。これが初めてかも。 * * * * * 聴いたことはなくても、昔読んだ音盤評の影響で、先入観を持っている。 少なくとも若い頃は、集中度の高い演奏をするヴァイオリニスト、という先入観を。 アクの強い表現を予想して聴き始めたのだけど、少し様子が違って戸惑う。 チョン・キョンファのヴァイオリンは、テンポの伸縮や歌いまわしに思い入れを漂わせつつも、弾きっぷりは一貫して端正で、響きは細身。 全体的に小作りな印象の音楽。もっと雄弁に迫ってくるようなヴァイオリンを想像していたけれど、そういうのではなかった。 とは言え、技術は高いし、気持ちが入っているし、表現は練られているから、この曲を鑑賞するうえで、欠けているものはないと思う。 * * * * * ケンペは、サウンドの趣味は渋めだけど、オーケストラからスケール感と色彩感を併せ持った響きを引き出す名手だと、常々思っていて、ここでもその手腕は発揮されている。 オーケストラの持ち味のせいだろうけど、サウンド傾向は明るくてカラフル。 伴奏の名手でもあり、盛り立て役としての務めを果たしながら、自分たちの持ち味をしっかりと打ち出していて、うまいものだと思う。

ユリア・フィッシャーによるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番

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2012年の録音。 管弦楽はデイヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団。 フィッシャーは、1983年生まれのドイツのヴァイオリン奏者。この人の音源を聴くのは初めて。 * * * * * 楽曲をいったん解体して、その一つ一つを磨きあげ、キレイに整形して、 丁寧に組み立てなおしたような演奏。 技術が安定していて、センスが良くて、丹念な演奏ぶり。すごく洗練されいるけれど、洗練させることに意識が向きすぎて、音楽の呼吸感が伝わってこない。 というか、音楽を息づかせることが乱れにつながる、という思考の演奏と言うべきか。 極端に頭でっかちなアプローチで、作り物臭がきつい。 * * * * * ジンマンらの伴奏は、タップリとしながら、見通しの良い響きで、フィッシャーのヴァイオリンを包み込む。 ジンマンは、オーケストラの響きを整え、色づかせることに長けた指揮者と思う。ただ、それ以上の何かは期待できない。 だから、交響曲とかでは食い足りないことが多いけれど、伴奏者としては良いかもしれない。 この音源に関しては、フィッシャーもジンマンも、音楽を綺麗に整えることを最優先するスタンスなので、相性がいいとも、悪いとも言える。

オイストラフとセルによるブラームスのヴァイオリン協奏曲

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1969年のセッション録音。 オイストラフは1974年に66歳で、セルは1970年に73歳で亡くなったので、どちらにとっても晩年の録音。 オイストラフは、1960年にクレンペラーとこの曲をセッション録音しているので、どうしても比較してしまう。 オイストラフの持ち味と作品を味わうなら、こちらのセルとの協演の方が良さそう。 クレンペラーとの録音は、どうしてもクレンペラーの個性が目についてしまう。 * * * * * セルは終始自然体。 もともと奇をてらうような音楽をやる人ではないけれど、研ぎ澄まされたアンサンブルとか張り詰めたような緊張感とかに、彼らしさを主張することが多い。 でも、ここでのセルは、闘志をギラつかせないで、オイストラフと協調し、盛りたてることに専念している感じ。 結果として、何も足さず、何もひかず調の仕上がり。 室内オーケストラよりやや大きいくらいの響きのボリューム感で、息苦しくない程度に引き締まったアンサンブルが、オイストラフのヴァイオリンに鋭敏に追従する 。 刺激は薄めだけど、模範的という意味では最右翼と思う。 * * * * * オイストラフは、クレンペラーとのセッション録音では、指揮者の深い息遣いに則って、彫りの深い表現をやっていた。 一方、こちらのセッション録音では、表現の幅は狭くなっているけれど、表情の付け方はより自在な感じ。演奏のスケールとしては小ぶりになったけれど、むしろクレンペラーとの音源が規格外であって、こちらの方がオイストラフの自然体に近いと感じられる。 フレーズの線を際立たせるよりも、音の濃淡のコントラストで歌い上げるスタイル。 * * * * * 録音のクォリティに関してとかく評判の悪いEMIだったけれど、1960年代後半は特に酷かった時期だと思う。 この音源は、不明瞭感は仕方ないとしても、強音でビリつくのはいただけない・・・

オイストラフとクレンペラ-によるブラームスのヴァイオリン協奏曲

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ダヴィド・オイストラフとオットー・クレンペラーによる1960年のセッション録音。 管弦楽をフランス国立放送管弦楽団が務めているのは、クレンペラーのセッション録音としては珍しい。 といっても、クレンペラー自身は、戦中〜戦後にかけて、欧米のオーケストラを渡り歩く生活をしていたようだから、勝手がわからないはずはない。 実際、この演奏では、オーケストラの柔らかくて明朗な響きと、クレンペラーの持ち味を、驚くほど融和させている。 * * * * * そういうことを含めて、わたしにとっては、クレンペラーの芸を楽しむ音源。 クレンペラーの伴奏物の録音(セッション録音でもライブ録音でも)を聴く限り、彼は決してソリストの音を塗りつぶすようなマネをしない。ソロと管弦楽が一体となって音楽を作り上げるという、いたって常識的なスタンスを堅持している。 ここでもその流儀は堅持されているけれど、とても彫りの深いスケールの大きな表現を展開していて、この管弦楽に見合うソロを務めるのは難事だろうと思う。 そういう意味で、オイストラフの骨太で伸びやかな美音と盤石な表現力があればこそ成立した演奏かもしれない。 だから、オイストラフの実力はしっかりと伝わってくるけれど、彼の自発性が強く表れた演奏かというと、微妙な気がする。 * * * * * 開放的な響きで壮大なサウンドイメージが繰り広げられる第一楽章。オーケストラの柔らかなアンサンブルを積極的に活かすクレンペラーをバックに、オイストラフがしっかりと歌い上げる第二楽章。 第三楽章は、やや感銘が落ちる。クレンペラーの方向性が曲想に合っていないような気がするけれど、それは置いておくとしても、肝心の主題のところでオーケストラが乱れる。オーケストラの性能がどうこうと言うより、録り直せば何でもないのに、それをしなかったような・・・

ジャニーヌ・ヤンセンによるブラームスのヴァイオリン協奏曲

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2015年の録音。伴奏はアントニオ・パッパーノ指揮サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団。 この音源に先立って鑑賞したブルッフのヴァイオリン協奏曲が好感触だったので、ブラームスも聴いてみた。 と言っても、2つの録音の間には9年もの隔たりがある。 演奏のやり方によっては(もちろんオケの協力が不可欠だけど)、大柄な交響曲風に響かせられる楽曲だけど、この演奏は、ヤンセンのヴァイオリンを軸に据えて、管弦楽は伴奏に徹している。まっとうな協奏曲としての響かせ方。 * * * * * ヴァイオリン独奏は、柔軟で繊細な表現が前に出ている。気合とか燃焼より、曲想を柔軟に、艶やかに、滑らかに歌い上げる。 優美で滑らかな方向性の中で、表現の彫はそれなりに深い。やっぱり"語り口"を感じさせる演奏家だ。 聴き手がこの曲に何を求めるかによっては、不満が出そうな演奏だけど、これはこれで一貫した作品観だし、彼女なりのやり方で曲の美質を聴かせていると思う。 * * * * * パッパーノらによる管弦楽は、響きの豊かさを保ちつつも、室内楽的な細やかさを聴かせる。 響きのボリューム感はコンパクト。基調は、乾いた感じのカラフルな色調。ヤンセンのソロとはいささか感触が異なるけれど、ヴァイオリン・ソロとの親和性は高い。 パッパーノという指揮者に詳しくないので、こういう持ち味なのか、打ち合わせてこのようにやっているのかはわからないけれど、見事な協調ぶり。

ジャニーヌ・ヤンセンによるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番

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1978年生まれのオランダのヴァイオリン奏者。2006年の録音。 管弦楽は、リッカルド・シャイー指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。 この曲は、ヴァイオリンのパートは聴き映えがするし、オーケストラのみの部分はかっこいい。 ただ、繰り返し聴くと、密度の薄さを感じさせられる。 とは言え、名だたるヴァイオリン奏者の多くが録音を残している名曲には違いない。 * * * * * ヤンセンの演奏は、技術的に優れていて、隅々までコントロールされていて、それでいて暑苦しくない程度に熱とか粘っこさがあって、とてもバランスが良い。 現代的なスタイリッシュさを持ちながら、音楽の流れにほどよい粘りがあるので、語り口めいたものを感じさせる。 演奏者の実力を誇示するだけでなく、ちゃんと楽曲の魅力も楽しめる。当たり前のようだけど、こういう演奏は、たぶんそんなに多いわけではない、と思う。 今のところ、そんなに身構えないでこの協奏曲を楽しみたいときに、手が伸びることの多い音源。 * * * * * シャイーのドイツ物は、交響曲あたりだとしっくりこないものは多いけれど、伴奏物はセンスの良さが光る。 音の出し方は軽くて、フレージングは柔軟。管弦楽全体としての豊かな響きと色づきの良さで楽しませる。洗練されていて、耳の触りは良いけれど、手ごたえみたいなものは乏しい。 いささか感覚的な心地よさに傾いているけれど、ヤンセンの伴奏としては、このあたりが程良いのかも。

リーズ・ドゥ・ラ・サールによるショパンのバラード、ピアノ協奏曲第2番

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リーズ・ドゥ・ラ・サールという若いフランスのピアニストの録音。 1988年生まれ。この音源は2009~2010年の録音なので、20代序盤の録音。 "綺麗なおねえさん"系のピアニストだけど、CDジャケットによって印象が異なる。どんな顔立ちなのか、イマイチわからない。 伴奏を務めているのが、ファビオ・ルイージ指揮のドレスデン国立歌劇場管弦楽団。 機動性に富んでいながら、常にしなやかな演奏ぶり。 * * * * 軽い繊細なタッチだけど、繰り出される音楽は、緩急の幅が極端に大きい。 単純にスケールの大きな表現とも言い切れない。スケールがどうこうと言うより、音楽のディテールを拡大して聴かせるようなアプローチ。 そういう持ち味が端的に表れているのは、協奏曲よりバラードか。1曲の中で緩急が大きく変化するから。 明確な作品像があって、それを音として具現化できる表現力があるから、敬して聴くだけなのだけど、ここまで緩急の落差が大きいと、作り物っぽく聴こえてしまう。 * * * *  協奏曲の方は、個々の楽章の中でのテンポの変化は穏当。もしかしたら、オーケストラと絡むことを考慮して加減しているのかも。 ただし、楽章間の落差は大きい。とにかく、第二楽章が、気が遠くなるくらいのじっくりとした足取り。  そのせいで、全曲の中での第ニ楽章の比重がグッと大きくなって、全曲としては独自のバランスになっている。 もっとも、そのことが楽曲に関する新たな発見につながるかというと・・・ 演奏が終わって、聴衆の拍手でライブ録音と気がついたのだけど、ライブでこれだけ堂々と自分の作品観を打ち出せるのは凄いことだろう。

wattOS R9をThinkPad X201にインストール

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これは備忘録的な記事。 ThinkPad X201の高速化、省電力化のために、Linux化。 もとのOSはWindows7(64bit)。 メモリ増設やSSD化でも、高速化できるのだろうけど、あちこちガタがきかかっている、外用のPCなので、いまさら金をかけたくない。使いつぶすつもり。 Linux化のデメリットは、いくつかある。 その第一は、インストールして使ってみないと、PCの機能のどのくらいが活かせるのかわからないところ。ThinkPadはubuntu系とは親和性が高いらしいので、画面表示、キー入力などの基本機能は大丈夫だろう。問題は無線LAN。ここまでできればOK。 好きな人は、いろんな軽量Linuxをインストールして、比較して選ぶのだろう。わたしの場合、よりよいものを選びたいというより、とにかく早くX201を使えるようにしたいので、ネットで情報収集し、ubuntu派生の軽量OS、LubuntuとwattOSを候補に絞り込んだ。 過去に使用経験があるLinuxはPUPPYだけ。だから、PUPPYも候補には加えていた。PUPPYは、LubuntuとwattOSよりさらに軽量だし、Frugal installという他には無い武器がある。 ただ、ubuntu派生のものに比べると、アプリケーションの選択肢が狭くなるし、ネットで手に入る情報量はubuntu系に劣る。Linuxにするだけで、Windowsと比べて選択肢や情報量が落ちるので、それ以上は落としたくない。 ただし、技術のある人なら、ubuntuで動くアプリケーションを、PUPPYでも動かせるようにできるらしい。わたしには、そこまでの技術はないし、そっち方面への向学心も無い。 最終的にwattOSを導入。 実は、こちらの希望としては、Lubuntuを導入したかった。なぜなら、wattOSに関するネットでの情報は極端に少なかったから。 しかし、両方をインストールしたときに、Lubuntuは失敗し、wattOSはうまくいった。Lubuntuの失敗の原因は、タイミングの悪さとか(先方のサーバーの不調か混雑とか?)かもしれない。でも、翌日にやり直すのは面倒なので、そのままwattOSを採用。 LubuntuもwattOSも、ubuntuの派生でデスクトップ環境にLXDEを採用している(ち...

小澤、ノーマンの、R.シュトラウス楽劇『サロメ』

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1990年のセッション録音。管弦楽は、シュターツカペレ・ドレスデン。  この音源、頭からの3分の2くらいは、聴いていて気持ちがノッていかない。 ハズレかな・・・と決め付けかけていたら、終盤のサロメの一人語り~幕切れは、のめりこんでしまった。 べつに、前半は演奏が不調で、後半盛り返した、ということではないだろう。 * * * * * 極彩色の官能性、みたいものがこの楽劇の持ち味だとしたら、小澤の編み出す音楽は、方向性が違っている。 ヒロインのサロメは、内に狂気を宿した少女という設定のようだけど、ノーマンの歌声や歌唱は、いくらなんでもかけ離れている。 この楽劇は、ヨカナーンの首が差し出されるあたりまでは物語が進行し、その後サロメが狂気を撒き散らしてショッキングに幕切れる。 物語が進行中は、官能性を微塵も感じさせない小澤らの管弦楽と、ノーマンの女丈夫なサロメ像のおかげで、入っていけなかった。 演奏としてのすごさは納得できるだけれど、気持ちがついていかない感じ。 この楽劇のもっとも異色な解釈のひとつというか、異色というより、単に間違った方向を向いているだけかもしれない。 * * * * * ところが、物語が止まって、サロメの長い一人語りに入ると、こちらの感じ方が変わる。 物語の進行中は、舞台で繰り広げられる物語と、音楽のタッチとのマッチングを意識してしまう。 しかし、モノローグに入ると、物語の設定とか背景より、歌詞に歌われる抽象的な世界が前面に出てくる。 そうなると、音楽のタッチより、演奏者の表現力そのものが感銘を左右し始める。あくまでも、わたしの場合は・・・ ノーマンの力強くて彫りの深い歌唱はもちろん聴き応えがある。「こんなのサロメじゃない」という違和感を、力でねじ伏せる大きな表現力。 そして、小澤とシュターツカペレ・ドレスデンが生み出す、迫真のアンサンブルにしびれた。 * * * * * すべての音をクリアに浮き上がらせながら、かつダイナミックに音楽を展開させる。 やや余裕を感じさせるテンポで、畳み掛けることはしない。緊張感がむき出しになることは無いけれど、緩むことは無く、雄弁に迫ってくる。 音楽が緊迫してくると、ダイナミックに切り込んでくるけれど、響きは濁らないし、アンサンブル...

ヴァントの、ブルックナー交響曲第8番(1990年東京ライブ)

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1990年東京でのライヴ録音。管弦楽は北ドイツ放送交響楽団。 ヴァントのブルックナーは、生前はずいぶんともてはやされていたように記憶する。 もしかしたら、今でももてはやされているかもしれない。 わたしにとっては、ヴァントは、感心するけれど、感動できないタイプの指揮者だった。 久しぶりにヴァントのブルックナー演奏を聴いて、そうした印象自体は変わらなかったけれど、大きな感銘を受けた。 * * * * * まあ、存命中最高レベルの評価を得ていた人だから、感心するのは当然だろう。一方、感動というのは、個人の感受性のあり方によるところが大きいので、基準は厳しくなる。 ただ、個人の感受性とか嗜好とは別のところで、ヴァントには表現力の狭さを感じる。わたしが思う偉大な指揮者の基準からすると、使える絵の具の色数が少ない。 ヴァントに関して漠然と感じているのは、基本的に気品があって清潔な質の音楽をやる人だ、ということ。狙ってやっているのではなく、にじみ出てきたものかもしれないけれど。 素朴だとか、粗野とか、野卑とか、ドロドロとか、エロイとか、そういうタイプの表現は苦手というか、そもそも彼の辞書には載ってなさそう。 優れた演奏家なら、自分の持ち味を確立しているのは当然だろう。とは言え、ヴァントの場合、それにしても表現の幅が狭いような気がする。 たとえば、この演奏において、ブルックナーの第八交響曲の持ち味の、どのくらいを表出できているのだろうか? * * * * * この演奏を聴いていると、もともとのキャパシティは大きくないかもしれないけれど、自分の音楽をとことん突き詰めて、独自の演奏様式を確立した指揮者であることは、思い知らされる。 あくまでも清潔な質の音楽の中で、繊細さと巨大さ、明解さと豊かさ、キレ味と伸びやかな歌等々の要素を、これ以上は無理なんじゃないかと思えるスケールで並び立たせている。 頑固オヤジ風だけど、聴くものを寄せ付けないような音楽ではない。硬派一辺倒ではない。伸びやかで端整なフレージング、豊かな響きなど、十分に心地よい。

ケーゲルによる、ブルックナーの交響曲第5番

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ライプツィヒ放送交響楽団との、1977年ライブ録音。 曲調の変化に合わせてテンポは柔軟に変えられるけれど、全体として、もったいぶらず、推進力を感じさせる。 サウンドは、重厚感や壮大さより、明晰さが重視され、ときに繊細さが際立つ。 * * * * * こういうやり方なので、終楽章あたりは、他の演奏と比べると、快速かつ軽量級となる。 この終楽章は、凝った仕組みだし、細部に目をやると変化に富んでいる。そのあたりを強調(?)するような演奏で聴くと、山あり谷ありの大掛かりなドラマのように聴こえなくもない。 ただ、この演奏のように、高い推進力でもって演奏されると、一定の調子で突き進んでいく印象。多少、あっけなく感じられる。 だからと言って、ケーゲルのようなやり方が劣っているとは、一概には言えない。ケーゲルのやり方だと、終楽章のウェイトが軽く感じられて、この楽章の聴き応えに限ると、評価が分かれるかもしれない。でも、全四楽章のバランスという意味では、この方が良いと思う。 両端楽章を重厚壮大にやりすぎると、第二楽章のおさまりが微妙になってしまう。この楽章は、ブルックナーの書いた緩徐楽章の中で、目立って簡潔に作られているから。 第二楽章が不出来なわけではなく、全四楽章が適切なバランスで作曲されているとするならば、ケーゲルのような演奏設計の方が、ブルックナーの意図に近いような気がする。 ただ、どのやり方を魅力的と感じるかは、聴き手の自由だけど。 * * * * * 楽曲の繊細な美しさを、クールな質感で描き出した第二楽章が印象的。 高音域優位の、透明度の高い響きで、息の長い旋律を次々と流れるように美しく歌い上げていく。演奏者の美意識を感じさせる。 オーケストラの響きが心地よくて、ケーゲルの美意識を体現できている感じ。 第三楽章は、推進力に溢れながらも、曲調の変化に機敏に反応できていて、小気味がいい。技巧的な管弦楽法を明解にしながら、変化の妙で楽しませてくれる。 オーケストラの上手さと柔軟な表現力に感心。 * * * * * 両端楽章は、他の演奏と比べたときに、足取りの軽さとか響きの薄さがいっそう際立つような表現。好き嫌いは分かれそうな気がするけれど、上のとおり、作品解釈としては納得できる。 第一楽章は、もとも...

カラヤンとウィーン・フィルによる、ドヴォルザークの交響曲第8番

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1961年のセッション録音。  カラヤンは、存命中絶大な人気を誇っていたが、わたしには独特の演奏様式のように感じられた。 * * * * * 造形はいたってキッチリとしている。音楽の息遣いを感じさせないくらい、カッチリとしている。 フレーズのつなぎ方なんかは、いたってシステマティック。間とか呼吸感のようなものを差し挟まない。 一方、それぞれのフレーズの流し方には、曲線的なつながり方を徹底させている。 そのために、カッチリとした造形をやっているのに、機械的な、鋭角的な、硬質な感触は皆無。 総合的には、音楽の流れは静的だけど、部分部分は多彩に色づく感じ。 * * * * * 艶やかで、甘口な響き。耳障りであったり、刺激的であるような響きは抑え込まれている。 ウィーン・フィルの持ち味のせいか、ヴァイオリンの甘美さ、木管の繊細さが際立つ。 そして、中低音以下を厚く響かせる、下膨れなバランスで、厚みとスケール感を生み出している。 厚みは十分だけど、ゴリゴリとした響きはないから、演奏全体の品位が損なわれることはない。 繊細な木管と分厚い低弦とが重なり合う場面では、室内楽的な意味でのアンサンブルの親密さ、みたいな感触はない。とは言え、響きのバランスはコントロールされていて、互いが邪魔をしあうことはない。 木管など内声部が前に出る場面では音量控えめで繊細に、盛り上がる場面では厚く響くので、サウンドの強弱の幅は広い。 それを活かしたダイナミックな演奏が展開されている。 もっとも、造形感は静的で、呼吸感を感じさせない。よって、音楽が盛り上がる場面で、感情的な高揚や躍動を連想させない。 素っ気なくも、機械的でもないけれど、あくまでも音響の物理的な高まりに止まっている。 * * * * * 考え抜かれ、磨き上げられたような演奏様式。 ただし、こういう取り合わせは、わたしの感性にはスムーズに入ってこない。それで、人工的というか、ときにはキメラ的に聴こえてしまう。 他にも違和感を覚える人気演奏家は複数いるから、そんなことで騒ぐことは無さそうだけど、帝王と称されるくらいに支持を集めた指揮者だけに、感性のズレが気になってしまう。 カラヤンがどうのと言うより、カラヤンを支持していた人たちと私自身の感性のズレと...

メルヴィン・タンによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番

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フォルテピアノはメルヴィン・タン、管弦楽はロジャー・ノリントン指揮のロンドン・クラシカル・プレイヤー。 1988年のセッション録音。  モーツァルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を聴くときは、独奏楽器とオーケストラとの音量のバランスが気になってしまう。 とかくフォルテピアノが管弦楽に埋もれがち。これが本来のバランスだとしても、個人的にはしっくりしない。 わたしがオリジナル楽器の演奏を聴く動機のひとつは、個々の音を明瞭に聞き取りたいということ。 この音源のバランスは、まずまずいい感じ。 * * * * * タンは、タッチの軽いフォルテピアノの特性を活かす方向の演奏。音楽の所作は軽快で、音はコロコロと小気味良く連なっていく。 音の一つ一つに硬さがなくて、どこか木質な響き。フォルテピアノだからこんな風に響くということではなく、タン独自の質感を感じる。 弾き方だけではなくて、使用楽器の調整なんかも関係しているのかもしれない。 軽量級で響きの柔らかいピアノだけど、足取りには小気味良さとキレがある。聴き手を圧するものはないけれど、ほどよい緊張感に貫かれている。 第一楽章のカデンツァあたりは、気合のノリが感じられたりするし。 この楽器の音量の乏しさはどうしようもないけれど、音楽が痩せて聴こえないように、磨かれた演奏様式。 オリジナル楽器によるベートーヴェンの演奏としては、わりと好きな方。 * * * * * バッハのチェンバロ曲を聴いていると、作曲家はチェンバロという楽器と円満にかかわっているように聴こえる。その弱点を受け入れた上で、チェンバロの表現力を徹底的に引き出しているような。 一方、ベートーヴェンは、フォルテピアノという楽器と円満にかかわるというより、その限界を超えていこうしているように聴こえる。 もちろん、フォルテピアノの表現能力の範囲内で円満にまとめられた曲はあるのだけれど。 そのせいか、ベートーヴェンの時代の楽器を使ったからといって、そこに作曲家の楽想がすっかり映し出されていると、信じられないことが多々ある。必ずしも、演奏者の責任ではないのだけれど。 だからといって、現代ピアノによる演奏にも、別の種類の、より大きな違和感を覚えてしまう。 それで、フォルテピアノによる演...