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ティーレマンによるブルックナー交響曲第8番(2019年録音)

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クリスティアーン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。  2019年10月の複数の演奏会から編集された音源。 交響曲全集の第1弾とのこと。 なお、ティーレマンは、2009年にこの交響曲をシュターツカベレ・ドレスデンと録音。同じ組み合わせで、2012年に映像を残している。 ちなみに、2009年の音源と演奏時間は比べると、大差はない。第一楽章はほぼ同タイムで、残りの3楽章は、新録音のほうが少しずつ短くなっている。   

クレンペラーによるベートーヴェン交響曲第3番「英雄」

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オットー・クレンぺラー指揮フィルハーモニア管弦楽団。 1959年のセッション録音。交響曲全集から。  クレンペラーのテンポ感の崩壊が見え始めたのが1950年代の終盤からで、ベートーヴェンの交響曲全集は、ちょうどその移行期に録音された。 そのためにこの全集は、興味深くも奇妙な仕上がりになっている。そんな中で「英雄」は崩壊後の方で、かなり遅いテンポ。   *-*-*-*-*-*-*-*-*-*    もっとも、この演奏を聴いて「崩壊」という言葉を連想させられることはないだろう。数年間に起こったテンポ感の変化が、あまりに極端なので「崩壊」というくらい大げさな言葉を使いたくなるけれど、個々の演奏が崩壊しているわけではない。 むしろ、この「英雄」などは、滅多にないくらい堅固で明晰に仕上がっている。演奏として全く崩れていない。 むしろ、このテンポなのに、停滞感や粘着感が一切ないところに、この指揮者の非凡な特質が表れている。 録音当時すでに70代半ばだけど、彼の耳は健在だったようで(推測)、その統率力とあいまって、質のそろったクリアなサウンドに仕上がっている。 そして、特筆したいのがそのリズム感。クレンペラーに限らずワールドクラスの演奏家だったら、リズム感は良いに決まっているのだけど、クレンペラーはこのテンポで音楽全体を躍動させる。こういう感じは、他に記憶がない。 彼の演奏スタイルは、構造や書法から楽曲にアプローチする典型であるにもかかわらず、 その音楽に生命感の横溢を感じさせる源泉は、このリズム感にある。 このリズム感はたぶん生来のもので、狙ってやっているわけではないのだろうけど、テンポ崩壊後のクレンペラーの演奏様式では、遅い足取りと躍動するリズム感との取り合わせが、際立って特徴的。   *-*-*-*-*-*-*-*-*-*   クレンペラーにとって得意曲だったようで、EMIへの正規録音は2つだけだが、ライブ音源が多数あり、映像も残っている。 EMIに残されたもう一つの音源は、1955年のモノラル録音で、 これでも堂々として聴こえるが、今回取り上げる音源より4分も短い。 EMIの音源なら、1955年の方が好みというか、クレンペラーにとって屈指の音源ではないかと思っている。 楽曲へのアプローチは1959年録音と変わりない...

メータによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』(2002年録音)

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ズービン・メータ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団他。  2002年の公演からの編集物。   メータは、1998〜2006年にかけて、この劇場の音楽監督だった。その時期の録音。当時メータは円熟の66歳。   *-*-*-*-*-*-*-*-*-*   メータの演奏様式は完成されており、 オーケストラのことも掌握できている感じだが、音楽そのものが訴求してこない。  読みが浅いとか、表面的とかではなく、いろいろ削ぎ落とした純度の高い音楽なのだけど、割り切りよく削ぎ落とし過ぎでは?という感じ。 なめらかで透明度の高いサウンド、スムーズで機能的なアンサンブル、ほんの少し生々しい響きを帯びた金管パートあたりが主成分。 この透明感と滑らかさを両立させたアンサンブルは、容易に到達できないような、洗練された領域なのだろうが、かと言って官能的と呼べるような域には達していない(“まじめさ”ゆえかもしれない)。 感情表現もあるにはあるけれど、おおむね歌手たちに任せていて、それに寄り添うくらいの濃さにとどまっている。 もしかしたら、知的な抑制を働かせているのかもしれないが、一歩どころか、三歩も四歩も距離を置いている感じがもどかしい。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* そこそこ動的ではあるけれど、血の気の薄い管弦楽のせいで、ドラマとして静的に感じられる。 そしてその影響か、歌手たちの歌唱は個々には雄弁だけど、リアルに響いてこない。 もっとも、脚本の読み替え上演が一般化している時代だけに、こういうのが舞台の演出にはピッタリだったのかもしれない(ちなみに、公演の映像も発売されている)。

ゲルギエフによるブルックナー交響曲第5番(2019年録音)

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ワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏。 2019年、ブルックナーゆかりの聖フローリアン修道院でのライブ演奏(編集物)。 ゲルギエフは、2015年9月より同オケの首席指揮者を務めており、すでにブルックナーの交響曲全集を完成させている。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 以前、ゲルギエフの指揮によるワーグナーを聴いたことがあり、音符をのっぺりとつなげて歌わせる手法に違和感を覚えた。あんな感じだと嫌だな、と思いながら聴き始めたが、不安は的中しなかった。 豊かな響きのせいで、当たりはずいぶん柔らかいが、端正でメリハリもある。造形は柔構造で、ガッチリとしたものではないが、安定感はある。 本場風のテイストとは異なるものの、異国情緒がことさらに強いわけでもない。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 演奏者も録音スタッフも、会場の豊かすぎる響きを活かすことに意識を向けているようだ。 ゲルギエフは、もともとサウンドを形成する能力の高い指揮者だが、自分らしさを活かしつつもそれを前面に出さないで、オーケストラとの共同作業を成功に導くことに力を注いでいる感じ。 本来オーケストラ音楽に不適なレベルに豊かな響きの代償として音が濁るのはしかたがないけれど、そんな中でオーケストラを繊細にコントロールして、肌理のある音楽に仕上げている。 指揮者の“色”より“腕”を感得させてくれる音源だと思う。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ミュンヘン・フィル視点に立つと、たとえ響きの面でやっかいでも、作曲者ゆかりの会場での演奏記録には、意義があるのだろう。 しかし、エピソード性にこだわるなら、ローカルな味わいに100%浸れるよう、筋金入りのドイツ系指揮者に棒を託してほしかった(誰が適任かはわからないが)。 ゲルギエフは首席指揮者として見事に腕前を聴かせているし、もしかしたらこの仕事を楽しんだかもしれないが、この人の実力を堪能するなら、音楽的な意味でまともな会場が望ましいと感じた。

ティーレマンによるブルックナー交響曲第5番(2004年録音)

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 クリスティアン・ティーレマン指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団。 ティーレマンは2004~2011年にかけて、同オーケストラの音楽総監督を務めた。この音源は、音楽総監督就任披露演奏会でのライブ録音を編集したもの。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 現代のブルックナー像としては重厚長大型と言えそうだけど、前世紀の往年の巨匠たちを基準にすると、正統派のアプローチとも言える。 もっとも、大柄で引き締まった造形、堂々とした足取り、量感豊かな鳴りっぷりなどは前世紀的かもしれないが、感情や空気感の表出より、滑らかなサウンドやアンサンブルの精度を優先しており、本質的には今っぽいやり方。まあ、ティーレマンは現代の指揮者だから当然か。 質実剛健風だけど、アンサンブルのキレや練り具合は上質。指揮者の統率力とかオーケストラの機動力を感じさせる。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 総じてよくできた演奏だけど、どうもディテールが雄弁に響いてこない。そのせいか、音楽はあっけらかんと流れていく感じ。 考えられる原因の一つが、ホモフォニックなアンサンブルの作法。各声部の掛け合いよりも、全体の骨太な流れを優先している。アンサンブル自体は精緻だけど、こういうバランスのとり方だと、彫が浅く聴こえる。 もう一つの原因が、響きの色彩感の乏しさ。 ミュンヘン・フィルのブッルクナーというと、ケンペとチェリビダッケの録音が印象深い。スタイルは全く違うけど、どちらもサウンドの色彩感が魅力的だった。 それからすると、期待を裏切られた感じ。演奏者ではなく、DGの録音のせいかもしれない(重厚さを重視しすぎ?)。

ハンス・スワロフスキーによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』

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ハンス・スワロフスキー指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団およびプラハ国立歌劇場管弦楽団の団員からなる録音用オーケストラ。 1968年の『ニーベルングの指環』セッション録音から。少し古い録音ながら、音質は良好。 スワロフスキーは1899年ハンガリー出身の指揮者。1975年没。指揮法の指導者としても名高い。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 音質は鮮明ながら、オーケストラサウンドはかなり奥まっていて、不自然なバランス。それでも、スワロフスキーがやっていることは明瞭に伝わってくる。 臨時で編成された混成オーケストラのようだが、指揮者の徹底されていて、響きとして明確に聴き取ることができる。統率力の高さを感じさせられる。 低音パートをスッキリと響かせることで、各パートの表情が鮮度高く表出されている。そのかわり、ドイツ風の厚みや広がりは薄弱。幕ごとのクライマックスでも、サウンドの圧力は軽め。 そのうえで、瞬間瞬間のパート間のバランスに徹底的にこだわっている。前に出す音、引っ込める音をメリハリよく切り替えて、しばしば独自のニュアンスを作り出しており、ハッとさせられる。 ただし、そのわりに雄弁とは感じられない。 主な原因は、平板な呼吸感だろう。音楽の振幅が激しい場面でも、呼吸感の変化は乏しい。 たとえば、「告別」の入りでも、集中から解放に切り替わる感覚が乏しい。物理的に音量がアップしているだけのようにも聴こえる。本来なら、ハッと息をのむような瞬間にしてほしい場面だ。  ワグナーの楽劇には、こういう決定的な瞬間が散りばめられている。そこでの演奏効果が今ひとつ。それ以外の場面はいい感じなのだけど。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* わたし自身は歌手の歌いっぷりについて感度が低いというか、要求レベルは低いつもりだが、このジークリンデは音程が揺れる感じで聞き苦しい。 また、ブリュンヒルデは、声の威力はあるけれど、少々粗いかもしれない。微妙にところだけど。

サイモン・ラトルによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』

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サイモン・ラトル指揮バイエルン放送交響楽団他。 2019年1月~2月の、コンサート形式での上演を編集した音源。 ラトルは、このオーケストラと2015年に『ラインの黄金』を録音している。4年ぶりというゆったりペース。 ちなみに、ヴォータン等配役が一部変わっている。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* オーケストラから、精妙で機能的なアンサンブルを引き出しているけれど、柔らかい音の出し方、粘らないフレージング、明るく開放的なサウンド、ゆとりのある足取りなどがあいまって、明朗で豊かな『ワルキューレ』が構築されている。 たとえば各幕の序奏からして、豊かさ柔らかさが優勢で、切迫感めいたものは乏しい。 全曲通して、ワーグナーのオーケストレーションを、豊かに美しく響かせることに、重きが置かれている。 無限旋律的で柔和なサウンドは心地よく、神話的な物語というより、妖精の物語のようにも聴こえる。 管弦楽が歌手たちを威圧する場面は皆無で、柔らかく包み込み、自在に引き立てている。 だから、歌手たちはことさらに力むことなく、余裕をもって表現している。聴く方も、いつになく落ち着いて向き合うことができる。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ラトルは、一般的にワーグナー音楽の特質と言えそうな劇性や説明的な表現(=ライトモティーフの強調)を排除している。 独自の『ワルキューレ』像を提示すべくこのようにやっているのか、それとも音楽的な嗜好の発露に過ぎないのか、これだけでは判断できない。 このやり方に共感できるかはともかく、その音楽の上質感や洗練度は、とてつもなく高い。 いくらオーケストラが高性能とは言え、編成の大きなオーケストラを精妙に響かせるラトルの手腕は、比類ないレベルにあると思える。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 当代の優れたワーグナー歌手たちが起用されているようだ。 ブリュンヒルデを歌うテオリンは、たまに鼻にかかって音程が揺れるように聴こえるのが気になったし、ヴォータンを演じるラザフォードは、そのテオリンに押され気味だったりするけれど、他の歌手たちを含めて大きな不満はない。

アクセル・コーバーによるワーグナー楽劇『神々の黄昏』

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アクセル・コーバー指揮、デュイスブルク・フィルハーモニー管弦楽団他。 2019年に一気に録音された『ニーペルングの指輪』全曲から。公演を編集した録音。 コーバーは、1970年ドイツ出身の指揮者。今のところ、劇場指揮者としての活動が主のようだ。 2009年からはラインドイツオペラの音楽監督を務めている。デュイスブルク・フィルハーモニー管弦楽団は、ラインドイツオペラの下部組織らしい。 ちなみに、コーバーは2013年にバイロイト音楽祭デビューしている。これまでのところ、主としての“歌劇”を担当しているようだ。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ブリュンヒルデを歌うのはリンダ・ワトソン。録音当時60歳かその直前。自己犠牲では、声の安定感は微妙ながら、滑ったり転ぶことはなく、最後まで地に足の着いた歌唱。 一方ジークフリートを歌うコービィ・ウェルチは(まったく知らない人)、たぶんこの役を歌うには声が軽くて弱いのだろうが、無難な仕上がりと感じた。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 管弦楽パートは、ワーグナーの素晴らしいオーケストレーションを、ひたすらプレーンにフラット聴かせる地味なアプローチだけど、精度が高くて流暢なアンサンブルは心地よい。 柔らかく広がる低音が自然なスケール感をもたらしているけれど、アンサンブル自体は端整で機能的。葬送行進曲あたりも、煽りなしで整然とまとめている。 決めるべき場面でのパンチ力はもうひとつだし、陰影みたいな要素は乏しいから、ドラマ性を期待して聴くと肩透かしになるかもしれない。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* コーバーの指揮ぶりは、ドラマを雄弁に描きあげるより、もっと抽象的に、声と管弦楽の有機的なアンサンブルを編み上げることに専念している感じ。 舞台上の出来事を無視しているわけではない。そういう違和感はないけれど、指揮者のドラマへの関与はかなり控えめ。 この指揮者の表現力の限界なのかもしれないが、やっていることに関しては高水準なので、こういう作品との距離感も悪くないと感じられる。 少なくとも、創造主のように作品世界を自分の色に染め上げる剛腕タイプよりは好ましい。

ゲルギエフによるショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』(2012年)

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ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団。 2012年6月の複数のライブ録音を編集したもの。 ゲルギエフは、2001年にこの曲を正規録音していた。このときはキーロフ歌劇場管弦楽団(現マリインスキー管弦楽団)とロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団の混成オーケストラを指揮していた。 ゲルギエフとマリインスキー管弦楽団との関係は、1988年に芸術監督になって以来続いている。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* この演奏の特徴を言葉にすると、2001年盤と重なるものが多い。 響きの量感は豊かで、安定した足取りの一方、各パートの音量は抑えめで、響きの色合いや歌い回しのニュアンスを細やかに浮き上がらせていく。 楽曲の大きさと細やかな造作の両方を過不足なく描き出すアプローチ。 でも、共通するのはこの辺りまで。ここから先はけっこう違っている。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 2001年盤の方が端整で締まりがあるし、色彩感が豊か(録音の質のせいもありそう)。楽曲の音響造形物として面白さを感じさせる仕上がり。 一方2012年盤には、色彩美めいたものはあまり感じられない。 そのかわり、ディテールの表情付けは執拗なまでに細やかで、陰影が豊かになっている。 そして、それらを明瞭に聴かせるために、余裕あるテンポがとられている。 結果として、演奏時間は3分42秒も長くなっている(ただし、第4楽章は1分短くなっている)。 シリアスな空気が増したことで、よりこの曲らしい相貌になったとも言えるけれど、この味は、楽譜から抽出されたというより、ゲルギエフその人の中から溢れ出てきたものでしょう。 ただし、計算にもとづく演出というより、もっと単純に、自分の中から出てくるものにブレーキをかけていない、みたいな。 だから、個性は強いけど、どこまでも自然に聴こえる。 指揮者としての高みにある演奏だけど、爛熟という言葉を連想させられる。

ショルティによるマーラー交響曲第8番『千人の交響曲』

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ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団、ウィーン楽友協会合唱団他。 1971年のスタジオ録音。 ショルティ(1912年生、1997年没)は、ハンガリー出身の指揮者。1969~1991年の長期にわたり、シカゴ交響楽団の音楽監督を務めた。 ショルティは、この録音をもって交響曲全集をいったん完成させたが、コンセルトヘボウ管弦楽団及びロンドン交響楽団と録音した曲を、のちにシカゴ交響楽団と再録音している。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 現代でも気軽に商業録音できる曲ではないだろうけれど、音源の数はかなり多くなってる。特に録音のクォリティが重要な曲だけに、今さらこの音源を聴く価値はあるのだろうか? 聴いてみると、その価値は十分以上にありそう。 まず録音のクォリティだけど、巨大な編成の演奏陣をやや距離を置いて俯瞰するような録り方なので、音の洪水が押し寄せる感じではないけれど、サウンドイメージは明解で、広がりとか奥行きも伝わってくる(立派なリスニング環境で再生すれば、違った風に聴こえるかもですが)。 ただし、場面によっては演奏空間がいささか人工的に感じられる。響きをクリアに保つために、手を加えている感じ。DECCAの録音ではありがちだけど。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 演奏の中で、この音源のあきらかな強みと思われるのが、独唱陣の質の高さ。 独唱者数が多くかつ求められるレベルが高いために、全員に満足することはまれ。個人的に、この曲の演奏を聴いて感じる不満の半分以上は、独唱者に対する違和感だったりする。 その点で、この音源は満足度が高い。声の質は様々だが、いずれも透明感があって、伸びやかな美声。 管弦楽ともよくシンクロしている。管弦楽も、独唱陣の歌唱も、透明で清潔だけど、強弱のメリハリは強め。そういうショルティ様式が徹底されている。 曲が曲だけに、「オヤッ!?」という部分が皆無ではないけれど、素晴らしい仕上がりだと思う。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* わたしの記憶では、ショルティは、1970年代に入ると、50~60年代のような過激なダイナミズムを控えるようになった。 この音源も例外ではない。力強い場面では歯切れよく畳みかけるけれど、神経に障るような音はシャットアウトされている。 結果として、透明なサウンド、機能美、端正な造形とい...

SparkyLinuxで音楽再生環境を整える

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SparkyLinuxをインストールした後、音楽再生に特化した環境のためにやったことを記録。 わたし自身は、何も見ないで使えるコマンドが数えるほどしかない、素人に毛が生えたような使い手。 ただし、音楽再生に特化するなら、限られたことさえできれば乗り切れるはず。 リアルタイムカーネルをインストール 以下を順に実行する。 sudo apt update sudo apt install linux-image-rt-amd64 ちなみに、音楽再生するだけなら、linux-headers-rt-amd64は不要。 音楽再生アプリをインストール aplayは、もちろんプレインストールされている。 シンプルという意味では理想的だけど、わたしにこの操作感(すべてをコマンドでやる)はつらいので、馴染んでいるcmusをインストール。 sudo apt install cmus ちなみに、cmusは音の好みで使っているだけで、おすすめするつもりはない。操作性とかは好きではない、というか、わたしの使い方ならもっとシンプルな方がよい。 ファイルマネージャーをインストール 音楽再生に直接関係しないけれど、ファイルマネージャーはほしい。 使い慣れたMidnight Commanderをインストール。 sudo apt install mc 困ったときのために、Ubuntuもインストール 同じパソコンに、Ubuntuもインストールしている。 Ubuntuを立ち上げて、Thunarとかのファイルマネージャーをルート権限で起動すると、SparkyLinuxのディレクトリを覗けるし、ファイルの編集もでる。 複雑なことをやるときGUIを使いたい人にはおすすめ。 ただし、これをやることで、新たなトラブルを抱え込むリスクがある。 経験の範囲内で言うと、grub関連のトラブルがとくに心配。 ちなみに、こちらの環境では、SparkyLinuxとUbuntuとの相性問題は、今のところない。 ALSAの設定 SparkyLinux導入と言うか、CLI環境を整えるときに、一番手こずったのがこれ。 最近のバージョンのDebian、Ubuntu系のGUI環境では、もうPulseAudioが不可欠なものとなっています。 その分、使い勝手も良くなっているし、いろいろと自動で設定してくれる。 SparkyLinuxのCLI版...

音楽再生専用のOSをSparkyLinuxに

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音楽再生専用に使っているノートパソコンは、ほぼMX Linuxのテキストモードで使っていた。 起動に少し時間がかかること以外不満はなかったが、DebianをCLIで使えばいじゃないか、となるのは自然な流れ。 そのほうがよりマシン負荷が低くなり、音に良さそう。 あと、使わないソフトウェアが少ないほうが、容量を節約できるし、ソフトウェア更新頻度も下げられるし、動作が軽くなる。 現状で、求める機能は以下のようなもの。 リアルタイムカーネルが使える。 cmusが使える。 ネットにつながる(わたしのスキルで)。 USBで外部記憶を読める。 音質向上のためのシステムファイルの書き換えが、わたしのスキルで可能。 DebianをCLIモードで再インストール DebianにCLIモードというのがあるわけではなく、デスクトップ環境をインストールしなければ、自ずとCLIで使うことになる。 というわけで、Debianの10.4.0をインストール。 Debianのインストールでは、毎回必ずwifiでひっかかり、しかもバージョンによってひっかかり方が微妙に違っているけれど(そんな気がする)、毎回結果的にクリアできている。 今回も同様だった。インストールにかかる時間そのものは短いけれど、なんだかんだで半日近くが潰れてしまう。 一休みしてから、音楽再生環境を整えようとしたけれど、ちょっと無理っぽい。 プレインストールされていないものが多過ぎて、手に負えそうにない。 というか、1週間くらいかけて、ネットで調べながら試行錯誤すればたぶんできるのだろうが、それだけの根気はない。 そこで、CLI環境を作りやすい、Debianベースのディストリビューションを探すことにした。 CLIで使うということは、日本語化を前提としていないので(文字化けする)、探せば見つかるはず。 SparkyLinuxをインストール CLIにこだわると、意外と選択肢はせまくて、諸条件を充たし、かつわたしのスキルで対応できそうなのはSparkyLinuxだけだった(見つけられなかっただけかも)。 多様な版が提供されていて、そのうちの一つ、MinimalCLI版をインストールした。 バージョン5.12で547MBと軽量。 インストールは意外と普通にできたが、念のため引っかかりそうなところを整理しておく。 ISOデータをダウンロードし...

ハイティンクによるショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』

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ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団。 1977〜1984年にかけて録音された全集の一つ。7番は1979年の録音。 ハイティンクは、1929年オランダ出身の指揮者。2019年に引退。 1967年〜1979年にかけて、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めた。 私見では、1980〜1981年のどこかで、ハイティンクは巨匠的な風格を獲得した。 ショスタコーヴィチの交響曲全集は、ちょうどその時期をまたいで録音されており、この指揮者に関心がある人にとっては興味深いかも。 私見が正しいとしたら、この第7交響曲は、巨匠的になる直前の録音。 ではそれが残念かと言うと、むしろ反対で、熟れる直前ならではの魅力を堪能できる。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 特定のパートを強調せず、常にオーケストラ全体の響きを意識させるバランスの作り方。そして、明解で歪まない造形。 ドラマ性より、音響造形物として描きあげることに軸足を置いているけれど、全体に覇気がみなぎっている。 むき出しの覇気ではないけれど、第一楽章のクライマックスで聴き手の息を呑ませる程度の迫真性はまとっている。 ハイティンクは、肌理のハッキリしたサウンドを好むけれど、各パートを分解するように聴かせるタイプではない。 オーケストラを一体として豊かに響かせながら、肌理を丁寧に浮き立たせる。そのため、演奏としてはかなり精緻だけど、ディテールの情報量が際立っているわけではない。 そのかわり、ここぞという場面では、精度を保ったまま、マスの響きを沸き立たせ、スリリングにうねらせる。 この、編成の大きなオーケストラを整然とかき鳴らす手腕は、ハイティンクの際立った魅力だと思う。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ハイティンクその人は、激しい表現を好んで用いる指揮者ではなく、とくに1980年代以降のスタジオ録音では、そういう表現を聴かせる機会は多くない(と思う)。 この音源は、攻めに転じたときの、ハイティングのドライブ力を知らしめる音源の一つ。 そして、成熟に向かっていた時期の音源だけに、クォリティの面で不満ない。アンサンブルは上質だし、曲想の描き分けも的確。 ただ、ハイティングのような響きの作り方のデメリットとして、場面による色調の変化が控えめになりやすい。それを味気なく感じる人はいるかもし...

Linux Mintを19.3から20へ、自動アップグレード

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Linux Mintの新しい長期サポート版20"Ulyana"が6月27日にリリースされていた。 現在のメインパソコンをLinux Mint19.3 Xfceで動かしていたが、すぐにアップグレードするつもりはなかった。細かな設定まで含めるとまる一日潰れるので。 というか、Linux Mintに対する思い入れはさほどではないので、長期サポート版をアップグレードするなら、ubuntu系のどれかに乗り換えようかとも考えていた(ちなみに、Linux Mintの前は U buntu Mateを使っていた)。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ところが、確か7月10日頃に、19.3から20に自動アップグレードしませんか、という通知が来た。 自動アップグレードできると思っていなかったが、すんなりいけば短時間で終わりそうなので、やってみた。 操作について特記することはない。通常のアップグレードより時間はかかるけど、難易度は大差ない。 面倒なのは、Timeshiftによるバックアップが必須(ただし回避できるし、その方法もMIntのサイトで示されている)だったことくらいか。 わたしのパソコンでは、Timeshiftにはファイルエクスプローラ(Thunarのこと)との相性問題があって削除していた。 何らかのトラブルを予期していたが、スンナリ終わって拍子抜け。 もっとも、単体のパソコンにLinux Mintだけを走らせるというシンプルな使い方なので、もともと低リスクだったのかも。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* アップグードから1週間超というところだが、自覚しているトラブルは、次の2つ。 Chromium Browserが消失。 GIMPが起動しなくなる。 この2つは対処済み。 Chromium の方は、正確にはトラブルではなく、7月10日時点で、Linux Mint20に対応版が未提供だったようだ。それで、Linux Mintの自動アップグレード中に消えてしまったようだ(たぶん)。 要するに、Chromiumは、Linux Mintの公式なアプリケーションではない、ということなのだろう。でも、近いうちに対応されることだろう。 ちなみに、代替策としてungoogled-chromiumをインストールした。ChromiumからGoogle依存性を徹底的に除去...

ゲルギエフによるショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』(2001年)

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ワレリー・ゲルギエフ指揮、管弦楽はキーロフ歌劇場管弦楽団とロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーによる混成オーケストラ。 2001年の録音(ライブからの編集)。 ゲルギエフは、1953年ロシア出身の指揮者。 彼は1988年からキーロフ歌劇場管弦楽団(現マリインスキー劇場管弦楽団)を率いている。 また、1995〜2008年の間、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めた。 なお、2012年に、マリインスキー劇場管弦楽団とこの曲を再録音している。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 磨かれた音響美と壮麗なサウンドイメージが、とにかく印象的。 ロシア出身の指揮者にとって、シリアスに描きたいタイプの楽曲ではないかと思うのだけど、良くも悪くも、しがらみ的なものは断ち切られていて、純粋に音楽的な造形物として作り込んでいる。 そして、ゲルギエフの手腕は驚異的。明確なイメージがあって、それを的確にオーケストラから引き出している感じ。 混成オーケストラによる演奏だそうだが、音楽性のブレみたいなものは感じられない。 しっとり系の響きに磨かれたアンサンブル。この曲をシリアスなドラマとして聴きたい人には、不謹慎と感じられるかもしれないほど色彩的でソフトな耳障り。 そして、曲想に合った壮麗なサウンドイメージも見事。 第一楽章の怒涛のクライマックスでも、各パートの音量を制御して、ディテールの表現を明確に色づかせる。威嚇的な音や響きの混濁は徹底排除されている。 それでいて、音楽は決して薄くも小さくもならない。 編成の大きなーケストラの量感ある響きをベースに、多様で立体的なアンサンブルが展開される。のけぞるような迫力は感じないが、要所要所でキレのある一撃やリズムの変化などが繰り出されるので、十分に盛り上がる。 終楽章のエンディングでも、この演奏の特徴が顕著に表れている。 もちろん盛り上がるけど、勝利の雄叫びと言うより、古の戦記物語のクライマックスのようなタッチ。 生々しさを感じさせない弦の歌わせ方・響かせ方、伸びやかでけたたましくない金管。 ただし、最後の最後でティンパニがドドドドと畳み掛ける。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ヘルベルト・フォン・カラヤンの最大の功績は、本場出身の指揮者でありながら、独墺系のレパートリーをローカルな価値観から解き放ったことにあ...

ヤンソンスによるショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』(1988年)

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マリス・ヤンソンス指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団 1988年の録音。最後に拍手が入っているけど、一発録りのライブではなさそう。 ヤンソンスは1943年ラトビア出身の指揮者。2019年に亡くなった。 プロデビューはレニングラード・フィルで、1973年からは副指揮者としてムラヴィンスキーをサポートしていたとのこと。 ヤンソンスによるこの曲の正規録音は他に、2006年のロイヤル・コンセルトへボウ管弦楽団との音源、2016年のバイエルン放送交響楽団との音源がある。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 録音された1988年には、師匠とも言えるムラヴィンスキーが亡くなっている。 そういうことが、演奏者の心理にどういう影響を与えたかはわからないが、演奏自体に湿っぽさはない。 テンポは中庸だが、いきいきとしたリズムでスムーズに進行される。個々のパートが明解に浮かび上がり、しなやかな合奏が繰り広げられる。 そうした若々しい表現に、ヴァイオリンパートのしっとり感や、低音パートの厚みなど、ロシア風味がほどほど加味されている。 ヤンソンスは、オーケストラを自分の色に染め上げるのではなく、その持ち味を積極的に活かそうとするタイプだと思うが(染め上げられないだけかもしれないが・・・)、ここでもそんな感じ。 少なくとも、本場の名オーケストラを起用した意義は感じられる。 いずれにしても、若々しい活気と、よく練られたアンサンブルの取り合わせが気持ちいい。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 山あり谷ありのこの曲に対し、場面に即して調子を切り替えており、聴いていて一本調子と感じることはない。 とは言え、他の演奏と比べると、軽快なリズム感が特徴的。そのため、この曲の演奏としては、重苦しさや深刻さが控えめになって、活気が強まっている。 良く言えば聴き通しやすく仕上がっているが、たとえば第一楽章の怒涛のクライマックスあたりは、気持ち良く盛り上がりはするけれど、破壊力は控えめ。 終楽章のエンディングでも、必要以上に大きな身振りはなく、自然な流れの中ですんなり幕を引く。 第三楽章は、粘らず快適なペース。彫りの深い表現とは言い難いが、かと言って素っ気なくはない。内省的とか静けさみたいな気分もちゃんと感じ取らせてくれる。 ここにこの交響曲のすべてがあるとは思わないが、(わたしのように)この曲に...

スヴェトラーノフによるショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』(1968年)

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エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団。 1968年のセッション録音。 スヴェトラーノフは、1928年ロシア出身の指揮者。2002年没。 1965〜2000年の長きに渡って、ソビエト国立交響楽団(のちにロシア国立交響楽団 )の音楽監督を務めた。 この音源は、その初期のもの。 スヴェトラーノフによるこの曲の音源は他に、この音源と同じ組み合わせによる1978年ライブ録音と、1993年のスウェーデン放送交響楽団とのライブがあるようだ。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 最大の聴きどころは、第一楽章だと思う。 この楽章は、盛り上げることに徹したらどうなるのか?という期待をもたせるタイプの音楽だけど、そういう聴き手の期待に応えてくれる演奏。 低音パートが増強された分厚いサウンドを響き渡らせながら、直線的に剛直に駆け上がっていく。 ただし、穏やかな場面では、叙情的なしっとりとした質感を表出しており、力で押すだけの演奏ではない。 とは言え、脳筋ぽいやり方だし、アンサルブルの仕上がりは粗くザラついている。破綻するところまではいっていないけれど、B級感はぬぐえない。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 4つの楽章の中で、第三楽章の表現には固さを感じる。 ウェットな響きは似つかわしいけれど、歌い回しとか呼吸感とかに無骨さがある。 前半の2つの楽章での、束の間の静かな場面では、質朴な味として聴けるけれど、 第三楽章のように、全編歌う楽章だと、ぎこちなくも感じられる。

ネゼ=セガンによるマーラー交響曲第8番『千人の交響曲』

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ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団他の演奏。 2016年3月10〜13日のライブから編集。 ネゼ=セガンは、1975年カナダ出身の指揮者。 彼は、フィラデルフィア管弦楽団が破産した直後の2012年に音楽監督に就任。再建を託された形だが、その関係は今(2020年)も続いている。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 今では当たり前になった手法だが、複数の生演奏を編集している。実録ライブではない。 それでも、あえて盛大な拍手を収録している。制作のコンセプトとして、ライブっぽさを意識しているのだと思う。 そのことは、第一部を聴いても感じられる。 とくに独唱者たちは全般的にテンションが高い。第一部の3声以上の重唱はただでさえ合わせるのが難しそうだけど、けっこうカオスになっている。 歌唱陣が暴走しているわけではなくて、指揮者が意図して煽っている感じ。強引さは感じないが、けっこう畳み掛けるし、エンディングの追い込みは凄まじい(羽目をはずし気味?)。 ちなみに、合唱に聞き苦しさはないけれど、それでも整えることより熱気を優先している感じはする。 ただ、管弦楽だけを聴いていると、そこまでホットではない。キレと張りはあるけれど、指揮者はしっかりと手綱を握っていて、一定レベルの端正さは保たれている。 一見若武者風の熱気だけど、ネゼ=セガン自身は冷静に手綱をさばきながら煽っている感じがする。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 第二部は、長大かつ多彩だから、勢いでは乗り切れない。 もちろん、ネゼ=セガンも勢いの勝負には出ていないし、それどころか抜群のバランス感覚を見せつける。 楽曲の多様な変化に余裕を持って対応しつつ、しかし造形的なまとまりは一貫しているし、流れが淀んだり滞る感じが一切しない。 こういう曲なので、感情表現の巧拙みたいなものは見極められないが、それを除くと、あらゆることに目配りできていて、無理なく並び立たせている感じ。気持ちよく聴ける。 色彩的ではないけれど、明るく艶のあるサウンドで、細部まで磨かれたアンサンブル(オーケストラの持ち味か?)。 しかし、楽曲の美しさに浸るとか、細部を肥大させるような振る舞いはなく、節度をもって進行される。 そのせいか、オラトリオっぽくならないで、あくまで交響曲として聴ける。もっとも、オラトリオっぽいのもそれはそれで良いの...

ヤノフスキによるマスカーニ歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』

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マレク・ヤノフスキ指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団、ライプツィヒMDR放送合唱団他。 2019年の録音。 ヤノフスキは、1939年ポーランド出身の指揮者。ただし、ドイツで育ったようだ。 彼は、2001〜2003年にこのオーケストラの首席指揮者を務めたことがあるが、2019年に返り咲いている。 劇場経験豊富なヤノフスキがこの作品を指揮できて、何の不思議もないけれど、一般論としては、このベタなイタリア・オペラとの取り合わせには、異質な印象がある。 が、この曲は好きだけど、基本イタリア歌劇を苦手とする当方にとして、むしろベタベタしていないところに期待。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 演奏の味わいとしては、ヤノフスキのワーグナー演奏あたりの印象に近い。 聴手を煽るのではなく、冷静な手さばきで作品書法を明解に描き出す。サウンドはどのパートも均質で、逆に言うと色彩感は乏しい。 リズムの処理は清潔で、コブシを振り回すことはないけれど、歌わせるべき箇所では旋律線をしっかり際立たせる。 緩急や剛柔の振れ幅はけっこうあって、しかも切り替えが機敏。 とくに激しい部分でのオーケストラのコントロールには舌を巻く。明解さを保ったまま、スリリングにドライブする。通常の場面では控えめに支える低音パートも、透明度を保ったままモリモリと高まる。 しかし、オーケストラの動きは機敏で、後にひかない。 地味な技だけど、ヤノフスキのこういうところは好み。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 全体としては、雄弁に柔軟に歌手たちをエスコートしているけれど、感情表現には深く入りこまない。 ドラマ的な側面を尊重しつつも、歌唱陣、オーケストラ、合唱団をひっくるめた、全体のアンサンブルの作り込みにも目を光らせている。 これが、この指揮者のいろいろな距離感なのだろう。 歌唱陣は、演技とかキャラ作りの成否はともかく(というか、そういうことに関心がないので・・・)、素直で明瞭な歌唱。 この演奏にふさわしい人選と思われ、気持ちよく聴き通せる。

フルシャによるドヴォルザーク交響曲第8番(2018年)

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ヤクブ・フルシャ指揮バンベルク交響楽団の演奏。 2018年の録音。 ヤクブ・フルシャは、1981年チェコ出身の指揮者。 2016年からバンベルク交響楽団の首席指揮者を務めている。 標準的〜余裕のあるテンポ設定で、安定感のある足どり。 場面場面の表情の作り方は、けっこう凝っている。わかりやすいところでは、第三楽章の主題を、1回目と2回目でニュアンスをあきらかに切り替えている。 ただ、場面に合わせて特定のパートを際立たせる、みたいなことはやらない。 常にアンサンブル全体を意識させながら、バランスの制御で表情を作っていく。 盛り上がる場面でも、サウンドイメージは鮮明で、よくコントロールされている。それでいて生気を感じさせる。 そのため、上に挙げたような細部での凝った演出はあるけれど、総合的には安定感の勝った、恰幅の良い仕上がりになっている。 この指揮者の基本的な能力の高さは十分に伝わるが、味わいみたいなものは薄まっている。 それは、この演奏の弱点ではないけれど、本場出身の若手指揮者ということで、思い入れの強い演奏を期待すると、裏切られそう。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 録音はそれなりに優秀だと思うけれど、量感豊かな録り方なので、再生装置との相性が強く出そう。 豊かさと細やかさの両方を再現できないと、サウンドが塊状になって、フルシャの演出がうまく伝わらなさそう。 高級オーディオ装置が必須というわけではないと思うけれど(ちなみに、わたしのは高級ではない)、低音の出方とかがある程度調教されていないと、冴えない鳴り方になりそう。

バーンスタインによるショスタコーヴィチ交響曲第7番(1988年)

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レナード・バーンスタイン指揮シカゴ交響楽団。 1988年録音。 当時バーンスタインは70歳。 同じ年の大曲の録音としては、シベリウスの7番、チャイコフスキーの5番、ドヴォルザークの新世界とチェロ協奏曲、マーラーの6番、モーツァルトのレクイエムがある。 また、彼はこの曲を1962年にニューヨーク・フィルハーモニックと録音している。 ちなみに、彼が正規録音を残したショスタコーヴィチの交響曲は、1番、5番、6番、7番、9番、14番で、14番以外は2回ずつ録音している。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* バーンスタインというと、死後も生前もマーラー指揮者として名高いけれど、わたしの中では、彼はマーラーに向いていない指揮者。 というか、独墺系の音楽全般に向いていないと思っている。その理由は、彼のサウンドについての感性。 バーンスタインは、複雑なオーケストレーションの音楽でも、各パートを徹底して分離して、それぞれから生々しい表情を引き出す。 整然とクールにまとめるのではなく、生々しくやれるところが彼の非凡さだと思っている。 ただ、このやり方だと、ハーモニーの彩りや豊かさが発揮されないず、響きの彩度が低下する。 また、濃く息苦しい空気感が常時発動しているので、集中と解放みたいな演奏効果を発揮できない。 これでは、管弦楽法の大家であったマーラーの作品はもちろん、ベートーヴェンだって、ブラームスだって、曲の魅力を引き出しきれない。 それに対して、ショスタコーヴィチの音楽との相性はいいと思う。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* 堂々としているけれどもたれない足取り、歪みのない安定した造形。そして、濃密な表情とサウンド。 ただ、濃密さの裏返しとして息苦しい。 この作品をシリアスな大曲として聴きたいなら、理想的ではないかと思う。 他の演奏だとハリボテっぽく聴こえることが多い楽曲だけど、この演奏で聴くと、全編濃密でリアル。 ちなみに、爆演ではない。緊張感と密度感ゆえに、聴き手に対する圧は強いけれど、クライマックスでも各パートの制御は緩まない。 音の大きなパートを威嚇的に鳴らして盛り上げる、みたいなやり方とは一線を画している。 胸のすくような盛り上がりを求めるなら、他をあたったほうが良いと思う。 中身の詰まった一途な音楽で、サービス精神は乏しい。

ネルソンスによるショスタコーヴィチ交響曲第7番(2017年)

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アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団。 2017年の録音。 ネルソンスは1978年ラトビア出身の指揮者。 この録音当時は、30代の終盤。 2014年からボストン交響楽団の音楽監督を務めている。 ちなみに、彼は2018年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターにも就いている。スター街道を驀進中。 なお、ネルソンスは、2011年にバーミンガム市交響楽団と、この曲を正規録音している。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ネルソンスの持ち味はアクの強いものではないけれど、かなりハッキリしていて、曲やオーケストラが変わっても、一貫したトーンがある。 それでも、ベートーヴェンの交響曲のような堅牢な音楽なら、演奏者による侵食を簡単には許さない。 しかし、同じドイツの交響曲でも、ブルックナーあたりになると、演奏者の振る舞い方によって、印象は大きく変わる。 では、ショスタコーヴィチの交響曲はどうかというと、わたし自身の思い入れが弱いので、何とも言いづらい。 少なくともこの曲のことは、芝居がかった演奏効果重視の音楽と捉えている。さしあたって、気持ちよく盛り上げてくれたら、そんなに不満を感じない。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* ネルソンスのアプローチは、几帳面、生真面目なもの。 昔流行った形容のしかたをすれば、純音楽的なアフプローチ。良くも悪くも、芝居っ気を表に出さない。 彼の録音を聴いていて、いつも感心するのは、大規模なオーケストラをスケール豊かに響かせながら、同時に繊細感とか細やかさを強く意識させる、耳の良さとか統率力。 それは、この演奏でも遺憾なく発揮されているというか、スタイリッシュと言いたいくらいビシッと決まっている。 第一楽章の中間部のような場面を聴いていても、音楽の高まりに興奮するより前に、その鉄壁の統率とオーケストラの性能に感心する。 逆に言えば、この楽章に期待する狂気とか興奮といった成分は基準値を下回っており、聴いていて面白くはない。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-* しかし、楽曲自体が冗長になる分、第二楽章以降は、ネルソンス流の有効性が際立ってくる。 とくにその真価を実感したのは終楽章。 全曲中もっとも締りを欠く不出来な楽章に、ネルソンスとボ...

エベーヌ四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番イ短調Op.132

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エベーヌ四重奏団が2019〜2020年に録音した全集から。 この曲は、全集の最後、2020年1月に録音。 ワールド・ツアーで世界の主要都市を回り、各都市での最終公演をライヴ録音したようだ。 それで、ジャケットに都市名が印字されている。この録音は、パリ公演のもの。 ちなみに、この全集の第一弾が録音される1ヶ月ほど前に、ヴィオラ奏者が入れ替わっている。 発表が直前になったというだけで、交代の準備を進めていたのだろうけれど。 エベーヌ四重奏団は、1999年にフランスの学生たちによって結成されたグループ。 ジャンルにとらわれない幅広い活動が注目されているらしい。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- 室内楽を聴くようになったのはここ数年で、そうすると、現役の演奏団体のほとんどは未知の存在だ。 聴いてみると、うまいグループが多い。わたしでも名前を聴いたことがある、60〜70年代にトップクラスとされていた団体にヒケをとらないグループがザラにある。  エベーヌ四重奏団もそんな感じ。技術的に上手いのは当然として、グループとしての個性も確立されていて、そして洗練されている。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- 場面場面の表情をきめ細かく作り込んでいて、あらゆる場面がくっきりと鮮やか。 作品像として、特殊という印象は受けないけれど、第三楽章は21分くらいかけている。長くなりがちな楽章だけど、20分を超えるのは珍しいと思う。 それだけ引き伸ばされながら、間延びを一切感じさせない。一音一音の余韻に至るまで念入りに磨かれている。すみずみまで鮮やか。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- 響きの発色がよく、耳障りも良い。親しみやすい演奏。 そのかわり、良くも悪くも屈託がない。楽曲の美しさに意識がフォーカスされいて、そこは十全に表現されているけれど、祈りとか陶酔感みたいな感覚はほぼ感じさせない。この演奏の静けさに、感情のゆらぎみたいな要素は含まれていない。 第5楽章の展開部のような箇所も、耳あたりよくスムーズに推移させている。響きが厳しく交錯するような処理とは対極的。 高度な洗練と、気取らない親しみやすさが、音楽の味わいにも浸透している。

アリサ・ワイラースタインによるバッハ無伴奏チェロ組曲第6番

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2019年セッション録音の全曲盤から。 彼女は、 1982年米国生まれのチェロ奏者。 過去のレコーディングの中では、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲の録音を聴いたことがあった。 しかし、曲自体をよく知らないので、その録音でもってどうこう言うのは無理だった。 では、バッハの無伴奏だったら、チェロ奏者について語れるかと言われると、それも厳しい。 この組曲集の中で、6番を偏愛しており、これを聴けば、自分なりに演奏者の傾向をつかむことはできる。 ただ、それでチェロ奏者を評価するのは難しい。 バッハの無伴奏は多くのチェリストが録音しており、レベルが高い。いつ頃からかはわからないけれど、知る限りここ30年くらいの録音は、カザルス並の演奏ならザラにある。 その中で好き嫌いを言うことはできるけれど、優劣を言うのは手に余る。 本人は優劣を言っているつもりでも、単に好みを語るだけになってしまいそう。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- ワイラースタインの表現は幅広いけれど、全体にテンションは抑え気味。力強さは控えめ。 そのかわりに、 滑らかで能弁。 というか、この滑らかさは、単なる傾向ではなく、技巧が巧拙を云々される次元を超えて、音楽表現に昇華されているようなレベルのもの。 表現にも音にも雑味がない。 とても高いレベルの技巧とセンスで演奏されいるのはまちがいなさそう。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- ただ、1曲めから多少落胆したことは否定できない。 この曲では、 一挺のチェロで演奏しているとは思えないような、雄渾な広がりを期待するのだけど、そういうのは無い。 こじんまりとして線の細い演奏というのではないけれど、技巧的にも表現としても、洗練させることが最優先。 1曲1曲の味わいを堪能させる、みたいな趣向ではない。  もっとも、バッハの無伴奏はさんざん聴かれてきた楽曲なので、今さら曲の持ち味に軸足を置くアプローチは取りにくいだろう。 ワイラースタインらしさを発揮することに軸足を置くのは、適切な選択なのだろう。他の演奏を見渡しても、そういうのが多いし。 とはいえ、 かなりワイラースタインの持ち味に寄せた音楽にはなっている。

スラドコフスキーによるショスタコーヴィチ交響曲第7番

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アレクサンドル・スラドコフスキー指揮タタルスタン国立交響楽団。 2016年セッション録音。 スラドコフスキーは、1965年ロシア出身の指揮者。 2010年よりタタルスタン国立交響楽団の芸術監督に就任。 ちなみに、タタルスタン共和国は、ロシア連邦の構成国。モスクワの東方に位置している。 世界でもっともタタール人が多い国のようだが、オーケストラから異国情緒のようなものは感じられない。 同じコンビで、ショスタコーヴィチ の協奏曲全集も録音している(ソリストは6名)。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- 推進力があり、力強くドラマティックな路線。  たとえば、第一楽章中間部の盛り上がりでは、煽り気味にペースアップし、リズムを力強く刻んで切迫感を前面に出している。 ここのテンポを煽るのはありがちだけど、かなり攻めている。スリリングな効果では上位に来そう。 でも、単に劇的、煽りというのではなく、楽曲の情緒的な性格を引き出している。 第3楽章では、思い入れの強さを感じさせる深い息遣い。 第4楽章でも、十分に盛り上げるけれど、それ以上に内省的な深い表情が印象的。戦争の勝利と言うより、内面のドラマが入念に描き出されているかのようにも聴こえる。 けっこう主張の強い表現になっていて、ことに終楽章は粘り過ぎな気がするけれど、真摯な思い入れが感じられる。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- シリアスな空気感で、濃いめの味付けではあるけれど、ことさらに息苦しくはない。 どんな場面でも、アンサンブルは一定以上の明快さを保っていて、混濁したり塊状にならない。 初めて聴くオーケストラだけど、派手さ、華やかさは感じないけれど、腰の強い地力を感じさせるアンサンブル。指揮者のドライブ力もあってのことでしょうが、聴き応えありです。 後半の2つの楽章の思い入れの強い演出には、今ひとつノれなかったものの、濃すぎてもたれることはありませんでした。

MX Linux と Linux Mint と Xubuntu と Debianの寸評

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現在常用しているLinuxは、MX LinuxとLinux MintとXubuntuとDebianの4つ。 デスクトップ環境はすべてXfce。 好みで言うとmateなのだけど、結局カスタマイズして似たような見栄えにするので、Xfceで統一した。 より軽量とされるLXDEでそろえても良かったのだけど、Lubuntuを使用したら意外とトラブルがあったので断念した。  事務作業やウェブ閲覧中心に使っている者の、素朴な感想。 MX Linuxの印象 開発者は中量級Linuxと謳っている。 確かに起動時間はやや長い。 ただし、操作中は他と比べて遜色を感じない。 しばらく使ってみて、もっとも好ましいのは、ubuntuの旧バージョンのノウハウ(現行バージョンで廃止されたもの)が、 MX Linuxではけっこう使えてしまうところ。 何か行き詰まってネットを検索したときに、旧バージョンのubuntuでの解決法しか見当たらない、ということがままある。 それをMX Linuxをやってみると、けっこうすんなりと通用することが多い。 この点では、Xubuntuの18.04とかより扱いやすいくらい。 MX LinuxはDebianベースだけど、日常の使用でDebianぽさを意識したことはない。むしろubuntuに近い使用感。   Linux Mint Xfceの印象 ubuntuに比べて、パソコンとの相性のやや神経質。いくつか古いノートにインストールしたが、わりと大きめのトラブルに見舞われて、放棄した。 ただし、メインのデスクトップ機との相性は問題ないようで、気に入っているわけではないのに、メイン機で常用している。 それでも、たまに起動中に止まるとかのトラブルはある。再起動したらすんなり進むので、実害はないけれど、信頼感は他よりやや落ちるか? 使っている分にはubuntuやMX Linuxとの差はあまり感じないけれど、インターフェースは洗練されたデザインなので、そこは気に入っている。 逆に言うと、比較しているMX LinuxやXubuntuやDebianは、そこが弱い(カスタマイズすれば済むことだけど)。 Xubntuの印象 安定感、起動速度、操作感などを総合評価したら、実用性...

ティーレマンによるブルックナー交響曲第8番(2009年ライブ)

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クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデンの演奏。 2009年のライブ録音。 録音月日が2009年9月14日と特定の日付になっている。 わざわざそうしているということは、同時期の複数回の録音を編集した音源ではないのだろう。 彼は、2012年よりこのオーケストラの首席指揮者を務めている。 この音源はそれ以前の、両者の良好な関係がスタートした頃の録音ということらしい。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- 一言で言って、ロマンティック歌い上げるブルックナーの8番。 場面場面で、際立たせる音ひっこめる音を際立たせつつ、絶妙の息遣いで歌い上げていく。 そういう意味で、積極的に表情を作っているが、自然でスムーズ。素直に気持ちを込めている感じ。そして、その方向性で、抜群に上手い。 サウンドの面では、フレーズの線を明解かつ艷やかに浮かび上がらせつつ、程よい重厚感が加味されている。 でも、厚さとかスケール感より、鮮度や色彩感のほうが優先されている。巨大さ、豪放さを求めると、かなり違う。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- 晦渋な第一楽章の音楽ですら、、はっとさせるような色彩美を纏っている。でも、白眉は第三楽章。呼吸感に気持ちが乗っていて、響きはひたすらに美しい。 終楽章は、快適なテンポをベースに、下品にならない範囲で緩急がつけられ、ドラマティックに煽られる。やはり展開部が美しい。

ヤンソンスによるブルックナー交響曲第8番

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好感度 ■■■■ ■ マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団。 2017年11月のライブ録音。 ヤンソンスは、1943年にラトビアで生まれ2019年に亡くなった指揮者。 2003年から亡くなるまで、このオーケストラの首席指揮者の地位にあった。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- この指揮者の演奏の特徴を、短い言葉で的確に説明するのは難しい。 この音源も然り。 ヤンソンスは、自分の美学の中にオーケストラを巻き込むタイプの指揮者ではなく、オーケストラとともに音楽を作り上げてく感じがある。 ただそれは、弱腰とか妥協とかではなく、演奏としては一貫しているし、品質にもこだわっている。 処世術の範囲を超えて、音楽とか共演者とのかかわり方が柔軟で協調的なのかもしれない。 この演奏からも、そのような印象を強く受けた。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- 全体として、ドイツ風のブルックナーという感じではないけれど、ある部分ではもの凄く本場っぽい質感がある。 ヤンソンスは、オーケストラの機能的でありながら耳当たりの柔らかいサウンドを存分に引き出していて、そのことが音楽をスムーズに心地よく響かせている。 低音すっきりのバランスなので、圧力はさほどではないけれど、スケール感は必要十分。 テンポは心持ちゆったりだけど、豊かなサウンドを活かすために適正と感じられる歩調で、もたれたり重くなることはない。 この指揮者らしく感じたのは呼吸感。 場面に応じて呼吸の深さを変えるけれど、変化の幅は控えめ。 ゆったりと量感を込めて歌われる場面でも、肚の底から溢れ出るような深い呼吸にはならない。 呼吸の深浅の対比を大きくすることは、造形を大きくゆがめることにつながる。そういうところでは、造形の端正さの方を重視しているように聞こえる。 ドラマティックさとか迫力を求めると、物足りなさが残るかもしれない。 -+-+-+-+-+-+-+-+-+-+- 自然体でピュアなアプローチだと思う。 演奏としての基本ルールをしっかり決めたら、後は極力演奏者の匂いを出さず、楽曲に自らを語らせるようなスタンス。 第1楽章や第4楽章は、曲自体に作曲者の力みが表れているから、もっと煽ってくれた方がらしく聴こ...