投稿

2018の投稿を表示しています

イヤホンの耳垢問題(1)

イメージ
ここ数年、イヤホンをよく使うようになった。常用しているのはEtymotic ResearchとWestoneのイヤホン。 イヤホンを使っていて、常に気になるのが、耳垢の問題。 Etymotic Researchには、画像のようなクリーニングセットが付属している。 4個ある緑色がフィルターで、イヤホンのステムの入り口付近に入っている。 筒の中に目の細かいメッシュ状の壁があって、耳垢などの異物の侵入を防いでいる。 そして、銀色の金具は、フィルターを取り出すための道具。 フィルターは使い捨てで、使用頻度や体質によるのだろうけど、おそらく3ヵ月~1年の範囲で交換するのが本来の使い方。 当初は自然体と言うか、音質の劣化を感じたら交換していた。 「最近高音が伸びなくなっている」と感じたときに、ルーペでのぞき込むと、だいたいフィルターに耳垢が引っ掛かっている。 交換すると高音が復活するのを何度か体験し、耳垢問題への認識が高まった。 :::::::::: 過去に5〜6回ヤフオクで中古イヤホンを落札した。 その半分以上が、音質がこもっていて、音楽鑑賞に耐えられない状態だった。 ステム(音が出る管の部分)内に耳垢がたまっているものもあった。 画像のようなクリーニングツールが付属していることが多い。 そこで、目視できる範囲で耳垢は取り除いたが、音質は改善されない。 新品状態を知らないから、それが本来のサウンドなのか、耳垢のせいで劣化しているのか、判断できない。 イヤホンの構造によっては、本体内部まで耳垢やその他の異物が入り込んで、性能を残ってしまうかもしれない。 そういうイヤホンだと、Etymotic Researchのフィルター交換の経験から推定すると、新品購入から、1年以内に、本来の性能を失う恐れがある。 :::::::::: Etymotic Researchのようなフィルター交換の仕組みがない商品では、耳垢ガードの付いているイヤーピースを使うことで、ある程度は対策できる。 ただし、この種のイヤーピースは、音質に影響を及ぼす。耳垢のかわりに、耳垢ガードという異物が音の邪魔をする。 わたしの印象では、おもな高音を損なう。 コンプライの耳垢ガードは、微細な異物までしっかりガードできそう。 見...

ミュンシュによるベルリオーズ幻想交響曲(1967年セッション録音)

イメージ
好感度 ■■■ ■■ シャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団。 1967年のセッション録音。 パリ管弦楽団は、パリ音楽院管弦楽団を母体として、1967年設立。 その初代首席指揮者がシャルル・ミュンシュだったが、彼は1968年に急逝。 亡くなったとき77歳だったので、年齢を見たら意外な死ではない。 ただ、演奏を聴く限り、力が漲っている。この1年ほど後に亡くなるとは予想しづらいか・・・ :::::::::: 鋭敏でドラマティックな演奏。楽想の変化に敏感に、大きな身振りで反応し、この曲の異様さを生々しく表現している。 丹念に磨き上げるのではなく、むしろオーケストラを振り回すことで、望む効果を生み出していところは、いかにもあの時代の大指揮者という風情。 荒々しくても、サウンドの見通しの良さは揺るがないし、場面場面での個々のパートの浮き上がらせ方は、芸が細かい。 その気になれば、アンサンブルを高いレベで磨き上げられそうだけど、この指揮者はそちらに向かわない。 オーケストラを駆り立て、煽るところから、非日常の狂気を演出する。 現代の感覚で聴くと、かなり荒削り。 しかし、美しいところは美しく、グロテスクなところはグロテスクにと、よりストレートな表現ととれなくもない。 洗練とか耳あたりの良さが偏重されるスタイルも、どこか退屈なので。 :::::::::: エネルギーは大きいけれど、オーケストラの編成はそんなに大きくはなさそう。 内声部の表情が雄弁で鮮度が高い。 圧力は強いけれど、響きの量感によるそれではなく、あくまでも表現の激しさ、ダイナミックさで迫ってくる。 単純な脳筋ではなく、作品書法に対する識見も意識させられる。 :::::::::: ミュンシュの感情表現は達者だけど、その根底には思い切りの良さがあって、そのために、演奏自体が力強くて健康的な色調を帯びてしまう。 作曲者が書き記した深い絶望感とか麻薬がもたらす幻想みたいな気配は乏しいかもしれない。むしろ、ためらいなく狂気に身を任せるような風情がある。 :::::::::: よりリアルな狂気に浸りたいなら、同じ組み合わせによるデビュー・コンサートのライブ録音だろう。 その後にこの音源を聴くと、むしろ、場面場面の表情を着実に表出している...

ショルティによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』

イメージ
ゲオルグ・ショルティ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。 1958〜1965年に録音された楽劇『ニーベルングの指環』全曲から。 『ワルキューレ』の録音は1962年のようだ。古い情報には1965年とするものもあった。 指揮者のショルティは、この録音中に50歳になったようだ。 :::::::::: リマスターによって、印象がグッと良くなった。 以前の録音だと、金管パートの生々しさがときに刺々しく聴こえたが、この音源にはそれがない。 響きの鮮度は上がっているのに、まろやかな一体感が感じられる。 どちらが実際に近いかはともかく、管弦楽への印象が変化した。 ダイナミックで表情の彫は深めだけど、名門オーケストラの美質を活かしながら、知的に楽曲の書法を描き出した演奏、くらいの印象。 これだったら、曲を楽しみたいときに、気軽に耳を傾けられそう。 :::::::::: 歌唱を聴くには、模範的な音源の一つだと思う。 主役級の歌手それぞれがハマっていると言うか、声や歌い方と役柄とのマッチングが自然に感じられるという意味で、最右翼の音源だと思う。 というか、低次元なことだけど、役柄とのキャラの乖離や、過剰なヴィブラートや、余裕のない発声などで、足を引っ張る人が一人もいないのはありがたい。 :::::::::: ショルティが率いる管弦楽は、普通にストーリーが流れていく部分、つまり大半はとても良い。 録音の録り方もあるのだろうけれど、木管とかの内声部も雄弁で、全体的には明晰さが勝ったアプローチだけど、ほどよく湿度とか濃さが加味されている感じ。 一般的な意味での相性の良さとは違うけれど、ショルティとこのオーケストラとの組み合わせは、いい塩梅。 :::::::::: ただ、盛り上がる場面でのショルティの作法は、ちょっと安っぽい。 彼は、塊状の響きが嫌で、個々のパートを明解に響かせたい。しかし、劇的なシーンでは、迫力とか激しさも表現したい。 この2つを両立させるために、ここぞという場面で、金管を鋭いアクセントで野太く鳴らす。 確かに、このやり方なら、響きを混濁させないで迫力を演出できる。しかし、単純に聴いていて下品だし、演奏様式としても洗練を感じない。 その瞬間、サウンドは混濁しないものの、金管が前に出過ぎることで、響...

バーンスタインによるベルリオーズ幻想交響曲(1976年)

イメージ
好感度 ■■ ■■■ レナード・バーンスタイン指揮フランス国立管弦楽団。1976年のセッション録音。 バーンスタインがCBSレコードとの独占的な関係を解消し、EMIやDGへの録音を活発化させた頃の録音。 :::::::::: 個々のパートを生々しく蠢かせながら、しかしオーケストレーションの全貌を常時整然と提示している。 「この場面では木管を前面に出して、弦は背後から支えるように・・・」というような形で響きを整理しない。 すべてのパートを均等に聴かせることが前提にあって、その上でバランスがコントロールされている。 このあたりは、作曲をする指揮者ならではのこだわりのようにも聴こえる。 機械的な意味での楽譜への忠実ではなく、音符の一つ一つにもれなく(彼なりの)意味を与えようとしている感じ。 そしてこの指揮者は、自分の望む音楽をやりきれる耳の良さとか、統率力を備えている。 :::::::::: ただし、こういう鳴らし方には副作用もある。 まず、場面場面の表情のメリハリは出にくくなる。表情付けが的確におこなわれているのは伝わってくるけれど、場面ごとのコントラストは弱い。 良くも悪くも、語り口みたいな要素は乏しい。 それ以上に気になるのが、それぞれのパートの響きが被さりあって、音の鮮度を少しずつ損なっている点。全体の響きを、ほんのりと濁らせくすませる。 個々のパートの表情や動きは明瞭かつ生々しいけれど、総じて鈍色で伸びない。 この音源は、フランスのオーケストラだからか、息苦しさは軽減されているけれど、響きに艶とか華やかさは無い。 そして、EMIの締まらない録音が、その傾向を助長している。 :::::::::: 良く言えば、作品のおどろおどろしい面を引き出している。でも、おどろおどろしくない方が効果的であろう場面も、おどろおどろしく聴こえる。 第四、第五楽章は、これらだけを抜き出して聴けば、らしく聴こえるかもしれない。物々しくて迫力もある。

ズスケ四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番

イメージ
1977年のセッション録音。1967~1980年に録音された全集から。 > このグループは、活動途中で名称を変更したため、まぎらわしい。 結成は1965年で、カール・ズスケを中心に、ベルリン国立歌劇場管弦楽団の首席奏者たちが、ズスケ四重奏団(Suske Quartett)を立ち上げたようだ。 その後、いつの頃からか和名は「ベルリン弦楽四重奏団」と変更されたようだが、その時期のジャケットには「Suske-Quartett  Berlin」と印字されている。つまり、ズスケ(Suske)の文字は残っている。 画像のジャケットはLPのもので(ちなみにLPは持っていない)、「Suske-Quartett 」と印字されている。 ということは、この録音時点=1977年には、まだ改称してなかったことになる。 結局、いつ改称したのだろう? :::::::::: 音色は均質で無味。全員で軽く柔らかく弾いていて、ひたすら穏当に親密にアンサンブルが展開される。 各パートとのバランスはほぼ均等。いずれも線は細いが、クッキリと明晰。 足取りは安定していて、造形は整っている。揺れは少ない。そのせいか、ダイナミックさは皆無ながら、芯はしっかりしているように聴こえる。 持ち味を発揮して主張するより、(彼らにとって)不要なものをいっさい寄せ付けないことで独自性を醸成する、みたいなアプローチ。 :::::::::: 一般的な意味での雄弁な演奏ではないけれど、そのペースに馴染んでくると、場面に応じた多彩な表情が染みてくる。 聴いていて緊張感のようなものは伝わってこないけれど、4パートのコンビネーションは精妙で、個が主張することなく一体感が堅持されている。 カルテットとしての力量をアピールするようなケレンは一切なく、穏やかな物腰で、しかし一点の曖昧さもなくベートーヴェンの書法を提示する。

クーベリックによるドヴォルザーク交響曲第8番(1976年ライブ)

イメージ
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団。 1976年のライブ録音。 クーベリックは、1961〜1978年に渡って、同オーケストラの首席指揮者を務めた。 クーベリックは、この交響曲を、1966年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とセッション録音している。 :::::::::: おそらく、オーケストラの編成はそんなに大きくない。 サウンド全体のボリューム感は控えめ。木管の輪郭が浮き彫りで、内声部が手にとるように明瞭。 華奢ではないし、こじんまりともしていないけれど、オーケストラサウンドのボリューム感はごく控え目。 個人的に、ドヴォルサークのオーケストレーションの妙を味わえる好ましいアプローチだけど、好き嫌いは分かれるかも。 :::::::::: 全編を緊張感が貫いているものの、テンションで聴かせるアプローチではない。 楽曲の書法を室内楽的な次元で浮き彫りにしながら、こだわりの表現を繰り広げている。緩急の揺れとか、細部の強調とかを自在にやっている。 造形を歪めるとか、特定パートを誇張するようなオーバーアクションはなく、一般的な意味でのアクの強さは感じないけれど、完全に自分の呼吸でやっているし、表情の付け方はこだわりに満ち満ちている。 たまたまクーベリックが端正な音楽を志向しているからお行儀良く聴こえるけれど、ご本人としては嗜好全開でやっているようにも聴こえる。 :::::::::: 弦セクションは、クーベリックの意志を体現するように、変幻自在の歌いっぷり。 金管セクションは、節度を保ちながら、歯切れよく他のパートに絡んでいる。 弦セクションに比べると、木管セクションはやや堅く聴こえる。弦がうますぎるのかも。 演奏のせいなのか、録音のせいなのかはわからないけれど、芯があって生々しいサウンド。ボヘミアの自然を連想させられるような音ではない。そういうのが不可欠な要素というわけではないけれど。

ティーレマンによるブラームス交響曲第1番(2012年)

イメージ
好感度 ■■■ ■■ クリスティアン・ティーレマン指揮ドレスデン・シュターツカペレの演奏。 2012〜2013年に録音された全集から。 ティーレマンは、2012年からこのオーケストラの首席指揮者を務めている。 なお、ティーレマンは、2006年にミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団と、録音している。 また、ドレスデン・シュターツカペレとDVDの交響曲全集も作っているが、そこでの交響曲第1番の演奏は、2012年東京でのライヴ収録のようだ。 :::::::::: 個々のパートの鮮度を侵さない範囲で量感豊か。重厚というのではないけれど、音楽の柄はそこそこ大きい。 その一方、一音一音を艷やかにしなやかに磨き上げている。もちろん、刺々しさや荒々しさは入念に取り除かれていて、とりわけヴァイオリン群のニュアンスあふれる歌い回しに耳を奪われる。各パートの発色も見事。とても洗練されている。 クライマックスでも、テイストは変わらないから、圧倒されるような力強さはない。でも、テンポの変化や呼吸感などを駆使して、それなりに盛り上げる。 第一楽章の展開部のクライマックスは難所だと思うけれど、力押ししないで、オーケストラのスリリングな合奏力で盛り上げる。指揮者もオーケストラも、抜群にうまい。 :::::::::: 終楽章はけっこうアクの強い演奏が繰り広げられている。 一定の推進力を維持しつつも、変幻自在の表現。テンポや音量や歌わせ方はわりとよく変化するし、強調するように変化させる。楽曲の展開に合わせた自然な揺らぎというのではない。 ゆったり広々とした序奏部に続いて、抑えめに始められる第一主題とか、再現部もしくは展開部が頂点に達する前段階での音量ダウンとか、コーダに入るときのたっぷりとしたタメとか。 まちがいなく作為的だけど、そうした試みのいくつかは面白い。ここでのティーレマンのアプローチに共感できるわけではないけれど、楽章の入り組んだ書法を、明快かつしなやかに解せている点は、好ましい。

ティーレマンによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』(2011年)

イメージ
2011年、ウィーン国立歌劇場でのライヴ録音。『ニーベルングの指環』全曲録音より。   ティーレマンには、2008年バイロイト音楽祭でのライブ録音がある。 ちなみに、ティーレマンは、同音楽祭で 2006年〜2010年まで『ニーベルングの指環』を担当した。 :::::::::: 音量レベルが低く、ステージやオーケストラが遠い録音。 粘度が高く透明度の低いサウンドは、心地よいものではない。 ウィーン国立歌劇場の音響を、それらしく捉えようと試みているのかもしれない。 だとしても、わたしの再生装置では、ありがたみはなさそう。 :::::::::: 演奏会場の響き方とか、オーケストラの持ち味とか、聴衆の好みを考慮してのことか、ティーレマンの作り出す音楽は、円満でふくよか。そして、スケール感は控えめ。 ところどころ凄みを効かせるけれど、ごく瞬間的。 あくまでも、ブレンドされた角のないサウンド、上品で流暢に進行が際立つ。 もちろん感情表現も控えめ。 告別~魔の炎の音楽の流れも、終始おっとりと品が良い。 おそらく、劇場に身を置いていたら、これでも音響のうねりに酔えたかもしれない。 しかし、音源として聴くと、指揮者の抑制的な姿勢が伝わってきて、こちらも冷めてしまう。 :::::::::: バイロイト音楽祭のライブ録音では、ティーレマンなりに、現代のワーグナー像を表現しているような印象を受けた。 それに対してこちらの音源は、観客の嗜好に合わせて 口当たり良く料理しました、というような仕上がり。 演奏後に盛大な拍手歓声が入っているので、観客は大喜びしたようだが、 わたしはウィーンの人ではないので微妙。

ジャン=ギアン・ケラスによるバッハの無伴奏チェロ組曲

イメージ
好感度 ■■ ■■■ ジャン=ギアン・ケラスの演奏。2007年のセッション録音。 ケラスは、1967年カナダ出身。現在はフランス国籍のようだ。 けっこうな数のレコーディングをおこなっているけれど、同曲の録音はこれだけのよう。 :::::::::: 超絶技巧。ハッとするようなスムーズさ、軽快さで演奏されている。 しかも、響きが磨かれている。シットリと艶がかっている。色合いの変化が、細やかに、適確にコントロールされている。 運動性や技巧のキレが、熱気とか圧力ではなく、クールな洗練につながっている。 活気のある曲は、かなり速いテンポで軽快に演奏される。一方、緩やかな曲は、落ち着いたテンポ設定だけど、粘り気はほとんどなく、細身でクール。 要するに、腕が立ってセンスも良い。技がキレるだけでなく、表現力にも広がりがある。そしてスタイリッシュ。カッコよくて卒がない。 :::::::::: 活気のある曲を、軽快に颯爽とやっていようと、細部の表情にまで行き届いている。 それでも、聴きどころのいくつかが、あっさりと、そそくさと通り過ぎていく感じで、喰い足りなさが残った。

サロネンによるベートーヴェン交響曲第7番

イメージ
好感度 ■■■ ■ ■ オンライン販売限定の“DG CONCERTS”シリーズの音源。 エサ=ペッカ・サロネン指揮、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の演奏。 2006年頃のライブ録音。 サロネンは、1992-2009年にかけて、同オーケストラの音楽監督を務めた。 :::::::::: 造形は整っているけれど、アンサンブルは覇気があってエネルギッシュ。 金管をバリバリ鳴らすような盛り上げ方ではなく、怜悧な質感のヴァイオリンが主導しながら、バイタリティとか瞬発力でもって、高揚を生み出している。 弦を主体とした厚みのある音響は手堅いけれど、サウンドのクールな質感とか高音の煌めきはこの指揮者特有の味。 オーケストラの持ち味が相まって、華やかな印象だけど、練られた演奏スタイル。 アンサンブルの精度はそれなりに高そうだけど、それぞれのパートの響きが被り合うので、細やかに粒立つような精密さはない。そういう種類の凄みはない。 とは言え、ディテールの表情を楽しむことはできる。 結果的には、細部の彫琢と全体としての厚みとが程よくバランスしている。 :::::::::: 特に終楽章の盛り上げはアッパレと感じる。オーケストラの機動力とか瞬発力を存分に引き出して、爽快に畳み掛ける。カッコよいし、見事な統率力。 弦とかディンパニの際立たせ方など解釈上の工夫も効果を発揮しているけれど、鍛えられたアンサンブルがベースにあるので、確かな手応えがある。

イタリア四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番

イメージ
好感度  ■■■ ■■ 1967年のセッション録音。全集から。 イタリア四重奏団は、1945年に結成され1980年に解散した。ヴィオラ以外は、メンバーが固定していた。 ベートーヴェンの全集は、1967年から1975年にかけて録音された。 グループ名の通りイタリアに拠点を置くものの、レコーディングされたレパートリーのほとんどは、独墺系の楽曲。 :::::::::: 楽曲に実直に向き合って、楽曲そのものに語らせようというアプローチ。作品の捉え方は素直で、調和を旨とした質の高いアンサンブルが繰り広げられる。 このグループの特質は、これみよがしではなく、時間をかけて熟成されたもとして、伝わってくる。あからさまではないけれど、深く行き渡っている。 各パートの響きは明るくて柔らかくて艷やか。 造形を一切歪めないけれど、その範囲内でそれぞれがしなやかに歌わせる。端正でありつつ、コクと粘りがある。 四者のバランスは均等に近い。個々のパートは、埋没することはないけれど、出過ぎることもなく、協調して、この団体特有の調和した豊かな響きを生み出している。 また、強弱の幅はあるけれど、刺激的なまでの激しさや、消え入るような弱音はマレ。 音楽は、常に、明朗でふくよかに響いて、心地よい。反面、陰影めいた要素は乏しい。 :::::::::: この団体の個性を意識させられるのが、全曲の中核をなす第三楽章。19分30秒以上かけて、じっくりと演奏されている。 作曲者による「 病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌 」という副題とは裏腹に、ひたすら明朗で豊かに仕上がっている。 個々の奏者は、気持ちを込めて入念に楽器を歌わせてくるけれど、合奏全体としては、感情表現より、調和したアンサンブルの美観が印象に残る。 このあたりで好悪が分かれそう。

アマデウス四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1962年のセッション録音。全集から。 同四重奏団は、1948年にイギリスで結成されたものの、メンバーのうち3人はオーストリアやドイツ出身のユダヤ系。 1987年に解散した。 1958〜63年に全集をDGに録音。 他に、1950〜1967年に放送局に残された、10番以外の録音の集成が流通している。 :::::::::: 個々のパートの線が強めで、かつ語尾に力を込めるような歌い回し。楽曲を情熱的に、力強く表現している。 といっても、入れ込んで熱くなっているのではなく、統制のもとに、楽曲をそのような音楽と捉え、表現している感じ。 端整な質感はないけれど、勢いが余ったり、乱れることはない。サウンドは適度に艷がある。表現のバランスに、それなりに配慮されている模様。 音を合わせることを優先したら、かなりの精度で合奏できそうだけど、それは彼らの目指す方向ではないのだろう。 :::::::::: とは言え、彼らがこの曲に持ち込んだアグレッシブなタッチは、あちこちで恣意的に響く。逆に言うと、曲調の推移に素直に反応できていないように聴こえる。 たとえば、第一楽章や終楽章での力みっぷりは不自然に感じられて、聴いていて同調できない。活気があるとか、ハツラツとしているのではなく、イキっている感触。 第三楽章は、押しの一手で音楽を無骨に響かせる。一本調子というほどではないけれど、息遣いを操って多彩な表情を作り出す、みたいな感じではない。

パッパーノによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付き』

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ アントニオ・パッパーノ指揮、ローマ聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団の演奏。オルガンはダニエレ・ロッシ。 2016年のライブ録音。 パッパーノは、1959年イギリス出身の指揮者。両親はイタリア人。 2005年より、ローマ聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団の音楽監督。 :::::::::: 減点法で判定すると、粗の少ない優等生な演奏。 パッパーノの描き出す作品像は、手堅くて確実。程よいテンポの設定だし、合奏を細かく掌握しながら、集合体としての迫力あるサウンドも聴かせる。 質の高い演奏だけど、音楽として雄弁とまでは言えない。硬軟で言うと、特に軟系統の表現力が味気ない。 たとえば、第一部後半とか、第二部の前半から後半への移行の場面とか、表情に硬さがある。浮遊感とか、崇高さとか、柔らかく光が差し込むイメージとか、何にせよ聴き手のイマジネーションを掻き立てるだけの力を感じない。 かと言って、その種の効果を意図的に排除しているようなも聴こえないし。 もともと派手な演奏効果に傾斜している楽曲だけに、柔かい場面で香り立つような表現をやってくれないと、曲全体の印象が安くなってしまう。 :::::::::: オーケストラは、暗めのトーンながら色彩感は豊か。そして、この交響曲を聴かせるだけの技量は感じられる。 とは言え、合奏能力で圧倒するほどキレてるわけではなく、語り口を楽しめるほど表現力豊かでもない。 これまでに蓄積された音源と聴き比べると、いささか地味。

バリリ四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1956年のセッション録音。1952〜1956年に録音された全集から。 バリリ四重奏団は、1945〜1959年にウィーンを拠点に活動。メンバーは、当時のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の主要メンバーだったらしい。 古いモノラル録音ながら、音質は驚くほどにクリア。 :::::::::: 美音でしなやかに歌う第一ヴァイオリンが、音頭を取っているようだけど、4パートがバランス良く親密なアンサンブルを繰り広げている。 程よく粘るしなやかなフレージングと、艷やかで潤いある響きの組み合わせで、心地よい歌いっぷり。 造形は端整できっちりしているけど、彫りは浅めなので、スムーズな横の流れが際立つ。 流麗でありながら、気分に流されない節度がある。品が良い。 長大な第三楽章演奏時間に差が出やすい楽章だけど、17分弱という標準〜やや速めのテンポ。締りのあるアンサンブルだけど、流麗に手際よく演奏されている。 美音と親密なアンサンブル、そしてツボを押さえた歌心が素晴らしい。気持ちよく楽曲に浸れる。 :::::::::: 場面に応じて、前に出るパートと、それを背後で支えるパートの、役割分担とかその切り替えがハッキリしている。メインのフレーズが際立つように、響きが注意深く整理されている。 そのため、場面ごとの表情がくっきりとわかりやすくて、音楽がスンナリ入ってくる。 ただし、音楽がフレーズの流れに沿って二次元的に整理されていて、耳当たり良くマルめてしまっているようにも聴こえる。 わかりやすさの代償に、音楽が少々軽く薄くなっている。

トルトゥリエによるバッハの無伴奏チェロ組曲(1982)

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1983年のセッション録音。 トルトゥリエは1914年生まれのフランスのチェロ奏者。1990年に76歳で亡くなった。 この録音当時は69歳。 彼は1960年にも同曲集をセッション録音している。 :::::::::: もたつくほどではないけれど、悠然とした足取りはいささかまだるっこしい。技術的には盛りを過ぎているように感じられる。 演奏者の自己顕示のようなものは感じられず、曲調を素直に描き出すことに徹している印象。 キレは乏しく無骨だけど、息遣いの使い分けは雄弁で、個々の楽曲の味わいを実直に引き出している。 自然体の良さがある。 悠然としたテンポのせいか、(チェロの演奏にありがちな)音を整えるためのタメとかリズムの揺動とかが目立たない。おかげで、造形は整っているし、演奏者のクセが気になりにくい。 素朴なタッチだけど、この組曲集の豊かさを味わえる音源という意味では、なかなか優れ物と感じられる。 :::::::::: 骨太だけど、粘っこさとか重苦しさがなく、もたれない。 全体の佇まいとして、落ち着きや風格と、軽やかな解放感が、自然に両立している。この風情が独特。

ブダペスト四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番(1952)

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1952年のセッション録音。 ブダペスト四重奏団は、1951~1952年にモノラルで、1958~1961年にステレオで、2回全集を録音している。 この音盤は、レーベルのオリジナル・マスターテープではなく、アナログ盤に拠ると思われる。 ただ、コロンビアの古い録音だと、メリハリを強調した不自然なものであろうから(根拠のない想像)、程度の良いアナログ盤に拠ると思われるこの音盤にも、嗜好品として一定の価値はあるかもしれない。 :::::::::: 引き締まった造形で、端然としている。気分や思い入れによる造形の歪みを一切排除する構え。 締りのある造形は、全体に程よい緊張感を及ぼしているけれど、スポーティーな快適さというのではない。 1961年のステレオ録音も、辛口の引き締まった演奏ぶりだったけれど、こちらの音源に比べると、けっこうほぐれている。 :::::::::: 各パートの線の動きにも緩みはないけれど、それぞれの表情には潤いとか陰影がある。 感情や気分に流されることはないけれど、積極的に感情表現している。 造形を歪めるような大きな身振りはないけれど、音の強弱、呼吸感、アンサンブルの色合いの変化みたいなものに細心の注意が払って、結果的に雄弁に仕上げている。 そんなところに、このグループの底力とかクォリティを感じる。 :::::::::: 特に、全曲の中核をなす第三楽章は、小気味よく15分台で演奏されているけれど、ヴィブラートを多用して、感情のヒダを聴かせる。 普通、これだけヴィブラートを使われるとしつこくなりそうだけど、素っ気ないくらいに潔い造形との兼ね合いでは、表現技法として有意義に聴こえる。 この楽章の、印象的な演奏の一つに仕上がっている。

ブダペスト四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番(1961)

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1961年のセッション録音。全集から このグループは、ハンガリーで1917年に結成され、1938年から米国に拠点を移し、1967年まで活動した。 ちなみに、この録音の頃には、メンバー全員旧ソ連出身者だったらしい。 1951~1952年にモノラルで、1958~1961年にステレオで、2回全曲録音している。 潤いが乏しい初期のステレオ録音。再生する環境によっては、響きにザラつきを感じるかもしれない。 それでも、十分に鮮明で、奏者たちのやっていることはつぶさに伝わってくる。 :::::::::: 録音当時、メンバーはいずれも60歳前後。50年代初頭の旧全集と比べると、キレは後退しているように感じる。 もっとも、旧全集は、平均以上に引き締まった演奏だったから、少し緩んだ新全集の方がむしろ標準的に聴こえなくもない。 この音源単体で聴けば、クォリティは必要十分と感じられる。特にコンビネーションはうまくて的確。 :::::::::: 味付けとか演出で聴かせるのではなく、スコアに記された音符をあいまいさなく浮き上がらせ、もっばら緊密なコンビネーションで聴かせる。 4つのパートはほぼ均等に聴こえる。ただし、場面ごとにバランスを小刻みに変化させて、表情を明確に打ち出す。メリハリがハッキリしていて、何気なく気分に流れることがない。 そして、メリハリの強さを除けば、個々の表情とかつながりは自然だし、よく練られている。 おかげで、明快であるのと同じくらいに分かりやすい。これがどういう音楽なのかを、過不足無く教えてくれる。 :::::::::: 全曲の頂点である第三楽章も、気負いを感じさせず知的にさばいているけれど、息遣いとか4パートの連携とか、細かいところまで的確に決める。 聴いていて、特別な気分になるほどではないけれど、聴き応えはあるし納得できる。 わたしの知る範囲では、世界を股にかけて活動する弦楽四重奏団の中でも、このレベルで仕上げられるグループは少ないと思う。

アルバン・ベルク四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番

イメージ
好感度  ■■■■ ■ 1983年のセッション録音。1回めの全集から。 同四重奏団は、1回めの全集を1978〜1983年に、2回めの全集を1989年に録音(後者はライブ録音)。 アルバン・ベルク四重奏団は、オーストリアのウィーンの拠点を置き、1970〜2008年まで活動した。 :::::::::: 造形は引き締まっていて、颯爽とした足取り。 タメとかゆらぎとかは必要最小限と言うか、必要最小限未満かも。 呼吸は浅めだけど、細かくコントロールされていて、せかせかした印象や単調さはない。 キレがあってダイナミック。緩急の変化が少ないかわりに、音量の強弱の幅はけっこう大きい。総体的には、十分にドラマティックな仕上がり。 一方、音色は艷やかでしっとりとした美音。そして、4つのパートのブレンド具合は絶妙。4人が対話するというより、一体となって響きを織り上げていく風情。 第一ヴァイオリンが表現の核となって、全体を主導している。雄弁で華々しい。 他のパートは、それを支える感じ。ただし、他のパートが消極的ということではなく、あくまでも連携のあり方。 響きの面でも、高音成分がわりと強めのバランス。そのせいか、ひんやりとした感触が終始つきまとう。 :::::::::: 作曲者の意図より、自分たちのセンスとか流儀を優先している。 楽曲ありきと言うより、演奏者のコンセプトありきの演奏。楽曲を料理しようという目線のアプローチ。 と言っても、彼らの演奏スタイルは、それなりに懐が広くて練られている。恣意的だとか強引と片付けられるほど偏狭ではない。 何よりも、彼らの演奏スタイルは、ちょっとかっこいい。 :::::::::: この音源で、全曲中最も個性的なのが、全曲の中核である第三楽章。15分強という快速の演奏。 といっても、テンポが速いというより、タメを最小限に切り詰めて、フレーズを次々と繰り出してくる感じ。 穏やかに浸るには向かいないかもしれないが、淀みはなく、い回しはしなやかでニュアンス豊か。一体となったアンサンブルが精妙に色合いを変化させる。 作曲者が与えた「病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」というタイトルにはそぐわないかもしれないが、 美しく洗練されていて高品位。 終楽章は、このグループの...

ハーゲン四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 2003年のセッション録音。 ハーゲン四重奏団は、オーストリアのザルツブルクを本拠とする。 1981年に、兄弟姉妹で活動開始。その後、第2ヴァイオリンが入れ替わり、1987年より現在の顔ぶれに。 ドイツ・グラモフォンに第1, 4, 7, 11, 12, 13, 14, 15, 16番をレコーディング。全集にはならなかった。 その後、MYRIOSというレーベルに移って、ベートーヴェンの録音を継続しているようだ。 :::::::::: 個々のパートが艷やかな美音を聴かせる。それぞれの響きは薄めで、響きが被って濁らないように、コントロールされている。 4パートが一体となって響きを織りなすというより、個々のパートの独立性を保ちながら、表情を綾なす感じ。 そして、場面ごとに前に出るパート、支えるパートの役割分担が明確になっていて、小気味よくしなやかに切り替わっていく。 高い技術をむき出しにしない、スマートでチャーミングな立ち振る舞い。 全体として、豊かさとか厚みは無いものの、響きの鮮度は高く、精妙で美麗。 :::::::::: グループが共有する美意識を前面に出している。感覚的な心地良さとか洗練に、思いっきり傾斜した作品像で、聴手との相性は分かれそう。 たとえば、「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」と題された第3楽章は、崇高な気分に包まれるより、シンプルに美しい音楽に浸る感覚が強い。

グァルネリ四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1988年のセッション録音。2度目の全集から。 グァルネリ四重奏団は、米国のグループで、1964年から2009年まで活動。 うち2001年までは、同じメンバーで活動していた。 1960年代後半と1990年前後に、2回ベートーヴェンの全集を録音している。 :::::::::: 楽曲の書法を、彫り深く、立体的に描き出す。 個々のパートは対等なバランスで、それぞれが伸びやかに柔らかく歌い回しながら、連携して作品を構築する。 肩の力を抜いたような、柔軟な音の出し方。耳あたりは柔らかい。 とは言え、感覚的な心地よさとか気分に浸るような演奏ではない。構造とか書法を描きあげることに軸足が置かれているせいだろう。 :::::::::: 全曲の白眉である第三楽章は19分以上もかけてじっくり演奏されている。 じっくりとして克明だけど、今ひとつ楽曲に浸れない。 堂々とした歩調は、演奏様式としては一貫しているけれど、この楽章に関しては武骨に聴こえる。個々の奏者は神経の通った演奏ぶりだけど、アンサンブル全体で息遣く感じが乏しい。 演奏のクォリティは高いけれど、作曲者はもう一段高い緊密さを要求しているような気がする。

ロストロポーヴィチによるバッハの無伴奏チェロ組曲

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1991年のセッション録音。 1927年生まれのロストロポーヴィチが、60代中盤の頃の録音。 この高名なチェロ奏者としては唯一のセッション録音。満を持しての録音なのだろう。 彼の同曲の音源としては、1955年のライブ録音があるようだ。 :::::::::: ロストロポーヴィチへの個人的な先入観から、起伏の大きなダイナミックな演奏を予想したけれど、そういう演奏ではなかった。 自分らしさを抑えているわけではないけれど、ことさらにそこを押し出すことはなく、楽曲の持ち味と自分の音楽性を協調させるようなアプローチ。 派手さは乏しく、むしろ親密さを感じさせる表現。 良くも悪くもで面白みはほどほど。 というか、演奏者自身、面白がることより、じっくりと味わうことを聴き手に求めている。 これがこの人の結論なのか、年齢なりの落ち着きということなのか、判断できないけれど。 :::::::::: それでも、相対的には、構造とか様式観みたいなものより、情緒性とか気分に重きが置かれている。 テンポの動かし方、音量の設定、歌い回しとかに目を向けると、演奏者の恣意(あるいは思い入れ)が色濃い。求める効果を実現するために型を崩す。 そういう意味では、ロストロポーヴィチの芸を聴く演奏になっている。

リン・ハレルによるバッハの無伴奏チェロ組曲

イメージ
好感度 ■■ ■ ■ ■ 1982〜1984年のセッション録音。 彼は1944年ニューヨーク生まれのチェロ奏者。これは30代終盤から40歳にかけての録音。 どうやらハレルは、この曲を再録音していないようだ。 :::::::::: 乾き気味の響き。艶とか潤い成分は乏しい。そのせいか、良し悪しを別にして、甘味成分ず乏しい。好みが分かれそう。 フレージングとかリズムの処理は清潔。音のつながりとか流れはスムーズだけど、音を引き伸ばしたり、粘らせたり、みたいなことはない。 細部の表現は丁寧だけど、ことさらに自己主張することはない。 テンポの良い曲は、高度な技術の支えもあって、歯切れよくてスムーズ。 緩やかな曲では、細やかなニュアンスが浮き彫りにされる。 表現自体は軽快でスムーズだけど、造形感はかっちりとして大柄。 大柄な紳士(?)みたいな相貌は、個人的には好感。

ハインリヒ・シフによるバッハの無伴奏チェロ組曲

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1984年のセッション録音。 ハインリヒ・シフは、1951年オーストリア出身。2016年に亡くなった。 チェロ奏者としての他に、指揮者としても活動していたらしい。 この音源は、シフが30代前半頃の録音。 :::::::::: とりあえず、演奏技術が高い。速めのキビキビとした足取りでありながら、力強さも併せ持ち、腰の強い表現。 演奏技術を前面に出しているわけではなく、簡潔ながら、曲の息遣いや細かなニュアンスを抜かり無くすくい上げている。 表現としては引き締まっているけれど、響きはほどほどにコクとか厚みがある。このあたりも程よいバランス。 全体としては、楽曲の持ち味を率直に端的に聴かせる好演。聴手の好みとか作品観との兼ね合いは別にして、とてもクォリティが高い。 :::::::::: もっとじっくりと巧妙に表現することで、この組曲集は、より奥行きのある表情を帯びる。 その意味で、この音源に楽曲のポテンシャルが洗いざらい現れているとは思わない。 とは言え、ここで聴かれる、強靭な演奏技術に裏付けられた活気には、これはこれで高い価値がある。

ピエール・フルニエによるバッハの無伴奏チェロ組曲(1959)

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1959年のジュネーブでのライブ録音。放送局の録音で、モノラルながら鮮明。 フルニエは、翌1960年に、同曲をセッション録音している。 録音時期が近いだけあって、フルニエが描き出す作品像は似通っている。 :::::::::: メインのフレーズをくっきりと流暢に浮かび上がらせる一方、サブの音は簡潔に軽く扱っている。 コクはあるけど粘らないみたいな、この人一流のセンスの良い歌い回しは、ここでも味わえる。 ただ、生演奏ということなのか、セッション録音と比べると、歌い方に熱がこもっている。髪を振り乱すような情熱的な所作ではないものの、演奏者の投入感は如実。 もともと熱さが“売り”の演奏者ではないと思うので、この熱気をどう聴くかは人それぞれだろうけれど。 それはそれとして、セッション録音では整えようとする演奏者の意識を感じたけれど、こちらでの弓使いはもっと思い切りが良い。両者を比較すれば、こちらの方に好感した。 :::::::::: もっとも、音楽の流れをスッキリと処理する演奏スタイルのせいで、他のすぐれた演奏と比べて、多彩さという意味では弱い。 チェロという渋くて、独奏するには何かと不自由な楽器を、どこまで豊かで多彩に響かせることができるか、という視点で聴くと、この演奏スタイルは分が悪い。

クナッパーツブッシュによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』(1958)

イメージ
好感度  ■■ ■ ■ ■ 1958年バイロイト音楽祭の『ニーベルングの指環』ライブ録音から。 歌唱陣は、ヴィントガッセンとか、ヴァルナイとか、ホッターとか、当時のトップスターたち。 ちなみに、クナッパーツブッシュは、1951,1956,1957,1958年とバイロイトで『ニーベルングの指環』を指揮したようだ。 つまり、この録音が、バイロイトでの最後の指輪になる。 :::::::::: 軽くて柔らかい音の出し方だけど、量感豊かに響かせる。包み込むような音響で、よくも悪くも刺激的な成分は薄い。随所で“静けさ”を覚えるくらいで、このドラマティックで生々しいワルキューレの音楽としては、かなり独特。 テクスチュアは明快で、ディテールのニュアンスを光らせつつ、すべての音があるべきところに収まっているように盤石。 他と比べるとテンポはやや遅めだけど、こういう質のサウンドで、テクスチュアを浮かび上がらせるなら妥当な設定。よって、全般的には遅いと意識させない。 ただし、ちょいちょいテンポを落として、音楽を漂わせるのは独特。 と言っても、その所作はあくまでも自然。聴手に対する煽りではなく、クナッパーツブッシュ自身が虚心に音楽に浸っているような風情。 楽曲を完全に消化して、己の音楽としてやっている感じ。 誰もが到達できるわけではない、高みに達した演奏という手応え。 もっとも、だからと言って、聴いていて面白いとは限らない。 ここまで指揮者の体臭が強くなると、聴き飽きるのも意外と早い。 曲の成り立ちを素直に引き出した演奏が恋しくなる。 :::::::::: 味わいは1957年の録音近いものの、あちらは、中庸の枠内に踏みとどまっていたと思う。 1958年の方は、クナッパーツブッシュが楽曲を知り尽くし、掌握しきっている様子はまざまざと伝わってくるけれど、『ワルキューレ』としては相当に異色。

ピエール・フルニエによるバッハの無伴奏チェロ組曲(1960)

イメージ
好感度  ■ ■ ■ ■ ■ ピエール・フルニエの独奏。 1960年のセッション録音。当時54歳。 他に、1959年のライブ録音、1972年のライブ録音があるようだ。 :::::::::: 響きの量感は控えめ。フレーズの線の流れを浮き上がらせ、それを端整に連ねていく感じ。 そういう演奏スタイルであっても、表現力が大きければ、聴き進むうちに楽曲の多様性に引きこまれてしまうはずだけど、この音源にそこまでの力を感じない。 良く言えば、お行儀が良くて控えめなのだけど、それで終始している。 でも、滑舌のキレが微妙だし、かと言って、流暢というほどでもない。音色の変化も多彩と言えるほどではない。 端整で落ち着いた方向性にしても、他にもっと魅力的な演奏が複数見つかりそう。 技術的にこれと言えるような破綻はなさそうだけど、小さくまとまっている風なので、頼りなく聴こえてしまう。 :::::::::: フルニエには他の曲でお世話になっていて、好感度が高い。だから、少々物足りなくても、美点を意識しながら聴き通した。 しかし、彼の演奏であるという事前情報抜きで聴いたら、途中で投げ出していたかもしれない。 いずれにせよ、これより魅力的な音源は、いくらでもある。

クナッパーツブッシュによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』(1957)

イメージ
ハンス・クナッパーツブッシュの指揮。 歌手は、ホッター、ヴァルナイ、アルデンホッフ、ニルソンなど当時のオールスターたち。 1957年バイロイト音楽祭でのライヴ録音。 クナッパーツブッシュはバイロイト音楽祭で、1951年、56年、57年、58年に指環を指揮している。ただし、『ワルキューレ』の録音が残っているのは1956〜1958年。   ::::::::::   1956〜1958年の3種の『ワルキューレ』の中で、人様に勧めるとしたらこれ。 圧倒的な感銘を与えてくれる演奏ではないけれど、揺るぎない安定感になんとも言えない居心地の良さを感じる。 悠々とした指揮ぶりで、オーケストラや歌手たちを煽る感じはない。スケール大きな鳴りっぷりだけど、大きなうねりは感じられないし、迫力もさほどではない。 場面に応じたしなやかで柔軟な表現が際立つ。ディテールが鮮明に、ニュアンスたっぷりに描き出されていく。歌手たちとの細やかなコンビネーションを楽しめる。 ただ意識してそのように演出している感じではない。余裕のあるテンポで密度のあるアンサンブルをやっ繰り広げたら、なるようになっただけ、みたいな感触。 結果として舞台上の出来事を支配しているけれど、君臨するのではなく、歌手たちを支え、包み込むような指揮ぶり。 1956年や1958年の音源には、クナッパーツブッシュの自己主張が聴かれたが、この音源はあるがままにやっている感じで好ましい。   ::::::::::   この楽劇を、激しく濃い情念の物語と捉えるなら、クナッパーツブッシュの指揮ぶりは物足りないかも。 1956年の方がより力強いけれど、ゴツくなった感じで、情念が渦巻く感じとは違う。そして、1958年の方は、この音源よりもっと淡白になっている。 一連のバイロイトでのライブ録音を聴く限り、大指揮者の存在感みたいな要素を除外して、楽曲の面白さを堪能させてくれるという意味で、決定的な演奏は見当たらない。

クナッパーツブッシュによるワーグナー楽劇『ワルキューレ』(1956)

イメージ
好感度   ■■ ■ ■ ■ 1956年バイロイト音楽祭の『ニーベルングの指環』ライブ録音から。 歌唱陣は、ヴィントガッセンとか、ヴァルナイとか、ホッターとか、当時のトップスターたち。 この年は、ヴィントガッセンがジークフリートとジークムントの2役を受け持ったので、『ワルキューレ』にも出演している。 ちなみに、クナッパーツブッシュは、1951,1956,1957,1958年とバイロイトで『ニーベルングの指環』を指揮したようだ。 :::::::::: この音源で彼がやっている音楽は、堂々としているし、素朴で率直。 もちろん、個性は強烈。うねるような雄渾なサウンドとか、音楽が勢いづく場面での踏みしめるような足取りとか。特に後者はアクが強いというか、わざとらしいくらいだけど、手の込んだことをやっているわけではない。 むしろ、音楽による一大絵巻を現出させるための素朴なアイディアを、徹底的に実行している、というような感じ。 結果として、全編通して、あるがままに近い形で演奏されているように感じられて、安心して委ねられる。 音による壮大な叙事詩が描き出されている。 :::::::::: とは言え、オーケストラ演奏への感銘はほどほど。 特に盛り上がる場面では、雑然していて、ビシッと決まらない。濁った塊状の響きは、古い録音のせいだけではなさそう。スカッとできるほどの力感もないし・・・ いずれにしても、ワーグナーの楽劇で、節目節目でのクライマックスが決まらないと、物足りない。 かといって、細やかな感情表現が楽しめる、というほどでもない。歌唱陣のことではなくて、オーケストラの演奏に関して。 このあたりは、録音の品質との兼ね合いが大きいだろうから、断定はできないものの、逆に言うと、古びた音質を超えて訴求してくるものは乏しい。 演奏自体に、乱れはあっても、緩みは感じられない。ワーグナーの巨匠としての務めを、手堅くやり遂げるに留まっていて、プラスαの愉悦は乏しい。 クナッパーツブッシュが遺した、いくつかのワーグナーのセッション録音のような、陰影濃くかつ細やかな音楽を期待すると、裏切られる。 それでも、後期ロマン派の香気を濃厚に伝える音源という意味で、他にかえがたい価値はある。

クナッパーツブッシュによるブルックナー交響曲第4番(1955)

イメージ
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。 1955年のセッション録音。良質なモノラル。 録音当時、クナッパーツブッシュは60代半ば過ぎ。 彼の同曲の録音は、他に1944年のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのライブ録音、1964年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのライブ録音があるようだ。 :::::::::: ベースとなるテンポは、速くも遅くもなく、中庸に聴こえる。それを基調に、曲調に合わせて自在に動かされるけれど、振れ幅はほどほど。 個々の声部を浮き上がらせて、陰影濃く歌わせる。特に、弦の際立たせ方に、旨味を感じさせる。このオーケストラだから弦が良い、という以上のものを聴かせる。 他の演奏では何気なく通り過ぎる一節に、何度となくハッとさせられる。 盛り上がる場面でも、個々の声部の明瞭さは維持されていて、塊としてのサウンドのパワーで押すことはない。スケール感とか量感はごく標準的。 :::::::::: 作品書法の明瞭さは一貫して保たれているけれど、多数の声部が交錯するような賑やかな場面では、サウンドの質感は粗くなる。混濁はしないけれど、どこか雑然とした響き。特に、金管の野太さとか。 味はあるけれど、洗練度は低い、田舎料理のような演奏。

アントニオ・メネセスによるバッハの無伴奏チェロ組曲(2004)

イメージ
アントニオ・メネセスの独奏。2004年のセッション録音。   メネセスは1957年ブラジル出身のチェロ奏者。1993年にも、この組曲を全曲録音している。 良く言えば平明で中庸だけど、この演奏はそういうのを通り越して、平穏すぎるかもしれない。 入念だし集中力を感じる。そして、技巧は優れている。でも、終始、表情は平明で、耳のあたりが柔らかい。 たとえば、難度が高い第6組曲では、速めのテンポでかつメリハリが明確だけど、まったくアグレッシブに聴こえない。  聴き手に何らかの影響を及ぼそうとする“欲”を感じない。 「他人の耳にどう響くか」みたいな自意識を手放して、ただただ音楽とともにある、みたいな風情。 こういう気負いのない自然に風合いが魅力だけど、単に面白みが乏しいと片付けられかねず、紙一重だ。 軽めの音の出し方で、流暢に進める。メリハリはあって細やかだけど、いずれもほどほど。表情の彫りは深くないし、スケール感みたいなものは感じない。 しかし、技術の高さが、そのまま細やかかつスムーズな表現につながっていて、練られた上質感がある。 音色は、落ち着いた色調ながら、ほんのりと艶がある。 チェロでは、音の粒立ちを整えるに、ちょっとしたタメを挟むものらしいが、やり過ぎると歩調がギクシャクしてしまう。 メネセスは、そういうことを感じさせない。良くも悪くも、チェロらしさを必要以上にこちらに意識させることなく、音楽自体の自然な流れを聴かせてくれる。 そういうことのために、技術が駆使されているような演奏。

エステル・ニッフェネッガーによるバッハの無伴奏チェロ組曲

イメージ
演奏はエステル・ニッフェネッガー。1971年のセッション録音。 ニッフェネッガーは、スイス出身の女性チェロ奏者。 1988年に同曲を再録音しているようだ。 この録音では、曲に合わせて、3つのチェロを使い分けているらしい。 :::::::::: 落ち着いたテンポで、素直に丁寧に弾いている。技術的にも、堅実で安定している。 主たるフレーズを伸びやかに際立たせて、それらを流暢につなげていく。ただし、フレージングは清潔で、造形はキチッとしている。 穏やかな曲調の楽曲は、丁寧かつスムーズ、そして品の良い歌いっぷりが心地よい。 ただし、活気のある楽曲でも同じ調子で、良く言えば落ち着いているけれど、表現の彫りは浅めで、いきいきとした精彩は乏しい。 響きのニュアンスはコントロールされているけれど、総じてくすんでいる。音色については、録音のせいかもしれない。 誠実で好ましいタッチだけど、演奏者の表現力が追いついていない印象を拭えない。 :::::::::: かつて、カザルスとかロストロポーヴィチとかマといった有名どころを聴いてもサッパリだったのが、この音源の第6番を聴いているときに、ハッとさせられた。 この音源を聴いて、無伴奏チェロ組曲の魅力に開眼させられた身としては、粗略に扱えない。恩人のようなものだ。 あらためて聴き返すと、思っていたほどの名演奏ではなかったようだし、もろにオールドスタイル(オリジナル楽器復興前のスタイル)だった。 一般論として、この曲の膨大な数の録音の中で、古臭いこの音源の存在意義が大きいとは考えにくい。

クレンペラーによるブルックナー交響曲第5番(1968)

イメージ
オットー・クレンペラー指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。 1968年ライブ録音。演奏当時、クレンペラーは83歳。 彼は、この前年に、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団と、同曲をセッション録音している。 :::::::::: 作品の捉え方は、前年のセッション録音と共通しているけれど、クレンペラーなりに、聴衆の嗜好やオーケストラの持ち味に合わせている印象。動機によって、テンポの設定を切り替えたり、歌い回しに緩急を施したり。 頑固者というイメージが強い指揮者だけど、欧米のオーケストラを転々としていた期間が長かっただけに、このくらいの融通は利くのだろう。 セッション録音の堅固な芸風に抵抗を感じる聴き手には、こちらの方が近づきやすいかも。 ただ、クレンペラーらしさ重視で聴くと、やや崩し気味の演奏。  さすがに、1950年代のライブ録音のような精悍さはない。ただ、演奏当時も、耳や統率力は健在だったようで、客演だけど、この指揮者らしい明解なアーティキュレーションを引き出している。 各パートの輪郭をクッキリと響かせて、明確なコントラストで彫り深く歌い回す。 :::::::::: クレンペラーの演奏スタイルは理知的、明解、的確。オーケストラを煽るようなやり方ではない。 ただ、興がのると、強めのリズムの刻みとか彫りが深くて芯の通ったフレージングのせいか、演奏の外観とは裏腹な、濃い表情が溢れ出してくる。 楽曲に理知的にアプローチしながら、作品の構造や書法だけでなく、情緒的な部分まで如実に浮かび上がらせる、 クレンペラーの芸風を伝える興味深い記録。

クレンペラーによるブルックナー交響曲第5番(1967)

イメージ
オットー・クレンペラー指揮、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団。 1967年のセッション録音。  知っている範囲で、クレンペラーの同曲の録音は他に、1957年アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団とのライブ、1967年ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのライブ、1968年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのライブがある。 :::::::::: 全曲通して、もたれない程度に悠然とした歩調が一貫している。 その上で、次々繰り出される多彩なモチーフを、リズム感とか歌い回しの変化で描き分ける。 そして、密度感のあるサウンド。低音厚めのサウンドバランスだけど、リズムの刻みを聴き取れる明確な低音。 アンサンブルの明晰さが重視されており、幻想的だとか、宗教的だとかの雰囲気作りはやっていない。 作品造形としては、滅多にないくらい堅固で硬派。ただし、息苦しさのようなものは感じられない。 たぶん、乾いた感触ながら、広がりと見通しの良さを兼ね備えた響きのおかげ。 :::::::::: 曲調の変化に反応しない歩調などは、武骨な印象につながりやすいけれど、アンサンブルはきめ細かくコントロールされている。それぞれの線の動きは明瞭で、音のつながり方や重なり方は念入りに表出されている。 明晰さだけなら、他に優れた演奏はいくらでもある。 クレンペラーの真骨頂は、明瞭な発音で、個々のフレーズを彫り深く、陰影深く形作るところ。一定した歩調で淡々とした進行だけど、アンサンブルは雄弁。 そのせいで、もっばら理詰めで作品にアプローチしているようでありながら、感情表現を強く意識させられる。 そうした作法は、ブルックナーの交響曲の中でも、特にこの曲と相性が良いようだ。

ヨッフムによるブルックナー交響曲第5番(1964)

イメージ
オイゲン・ヨッフム指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団。 1964年のライブ録音。ヨッフム61歳。 ヨッフムは、1961~1964年に、ハイティンクと共同で、同オーケストラの首席指揮者を務めていた。 オットーボイレンの聖ベネディクトゥス修道院の大聖堂での演奏。それだけに残響は多めだけど、そういう場所での録音のわりには、ディテールが聴き取りやすい録音。 :::::::::: 実直なオッサン然とした風貌とは異なり、研ぎ澄まされた鮮やかな演奏。 会場の残響で響きは豊かに聴こえるけれど、低音は薄く広がるように響かせていて、中高音パート主体に表現を作っている。 端正で歯切れの良いアンサンブルを、演奏会場の豊かな響きが包み込んでいる。快適なサウンド・イメージ。 個々のパートは線が細いし、それぞれのリズムの刻みも軽め。軽快で、鋭敏で、スムーズなアンサンブル。響きの鮮度は高く色彩的。 とても洗練されていて、オーケストラもうまいし、指揮者のオーケストラをハンドリングする能力も、際立っている。 細かなテンポの変化はあるけれど、第二楽章を除いて、颯爽とした足取りで一貫している。 :::::::::: 軽快で歯切れ良いタッチだけど、ほど良い恰幅の音響。ただし、クライマックスの手ごたえは軽量級。 また、場面ごとの色調の変化はあるけれど、軽快でキビキビした足取りもあって、あっさりとしたタッチ。表情の動的な展開みたいなものは控えめ。

シューリヒトによるブルックナー交響曲第5番(1963)

イメージ
カール・シューリヒト指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。 1963年のライブ録音。良質なモノラル録音。 シューリヒトのこの曲の音源は他に、1962年のシュトゥットガルト放送交響楽団とのライブ録音、1959年のヘッセン放送交響楽団とのライブ録音がある。前者はここでも取り上げている。後者は未聴。 :::::::::: 個々のパートをくっきりと鳴らしわけながら、そのコンビネーションの妙味で聴かせる。 妙味と言っても、控えめな隠し味的なものではなく、大胆不敵。 音の重ね方やバランスの作り方に創意工夫が凝らされ、テンポは自在に伸縮する。 大胆にやっているけれど、気ままな印象はしない。楽曲を知り尽くした人が、味わい尽くし、楽しむような手つき。そういう楽しさを、聴き手と共有するような。 同じテンポを動かすにしても、フルトヴェングラーのような、楽曲の構成に則って緩急や起伏を強調するというやり方ではない。 シューリヒトのは、個々のフレーズに込められているニュアンスを強調する感じ。 そういうやり方なので、ガッチリとした造形感みたいなものは感じられないけれど、かと言って散漫に流れることはない。 大胆に揺さぶりながら、全曲通しての一貫性を聴かせるところに、この指揮者の技を感じる。 ブルックナーだからと言ってことさらに厚く響かせることはない。 しかし、フレーズの線は、しなやかでありながら、ほどほどに粘りとか芯の強さがあって、密度濃く連動させるから、腰の軽さはない。 いかにも大曲というタッチではないけれど、手ごたえは十分にある。 :::::::::: シューリヒトの大胆なアプローチに実体をもたらすウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のアンサンブルは非凡。 指揮者がこれだけ振り回しても、食らいつくというより、むしろノリ良く乗っかっている感じ。 暴れん坊な指揮ぶりを考えると、アンサンブルはよくまとまっている。 他の指揮者と一味違う角度からこの交響曲を聴かせると同時に、この指揮者の飄々とした凄みを見せつける音源。

ズヴェーデンによるブルックナー交響曲第8番

イメージ
ヤープ・ファン・ズヴェーデン指揮、オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団。 2011年のセッション録音。 この指揮者は、2006~2013年にかけて、ブルックナーの交響曲全集を録音している。 ズヴェーデンは、1960年生まれのオランダ出身の指揮者。 2005~2012年の間、オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めた。 :::::::::: 柔らかくて広がりのあるサウンドが展開される。ソフトフォーカス気味だけど、曖昧模糊とした響きではなく、個々のパートのやっていることを聴き取ることはできる。 量感はあるけれど、低音が分厚いわけではなく、重苦しさはない。 逆に、うねるような粘り強さも感じられない。 テンポは、終楽章はやや速めで、その他の3楽章は標準~やや遅め。第三楽章を全曲の頂点として全曲のまとまりを作っている模様。 :::::::::: 弦主体に表情が作られており、柔らかくてしなやかなフレージングで、心地よく歌い込まれる。 フレージングの陰影は豊かだけど、息継ぎは淡々としている。自在な息遣いで聴き手を引き込む、みたいな芸当はやらない。 そのせいか、ロマンティックな味付けのようでありながら、そこにのめり込むことはなく、楽曲と一定の距離感を保つ印象。良く言えば、節度とか清潔感が感じられる。 木管群は総じて線が細く、ときに埋没してしまう。第四楽章の展開部あたりは、快速テンポがあいまって、ピーヒャラとお囃子のような調子。 金管群はもちろん埋没することはないけれど、弦の豊かな響きにくるまれている。 オーケストラは、ズヴェーデンが狙っている音響を体感させてくれる程度には健闘しているけれど、全体的に響きが薄くてうま味に乏しい。 :::::::::: 弦にウェイトを置いて、表情を明確に出しながら、豊かな響きをもたらす作法に、徹底した自己演出を感じる。演奏のコンセプトが端的で、わかりやすい。 しかし、その見返りに内声部が薄められており、音楽の密度は薄まって聴こえる。楽曲を堪能する目的で聴くには、物足りない。

シューリヒトによるブルックナー交響曲第5番(1962)

イメージ
カール・シューリヒト指揮、シュトゥットガルト放送交響楽団。 1962年のライブ録音。モノラルながら、放送局の録音らしく極めて鮮明。 この曲のシューリヒトの音源としては、1963年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との録音がある。 :::::::::: シューリヒトは1880年に生まれて1967年に亡くなっているので、演奏当時82歳。その年齢で、これほど鮮やかで活力のある演奏をできることに、とりあえず感嘆する。 ディテールを雄弁に響かせるための広々とした造形。 ただし、壮大志向ということではない。響きの量感は控えめで、個々のパートをクリアに響かせて、室内楽的と呼べるくらいの密度で、アンサンブルを制御している。 演奏のベースにあるのは、各パートの掛け合いによって音楽を編み上げる、言わば古典的なアンサンブルの作法。 幻想性とか神秘性みたいな気分・雰囲気も、音響の奔流みたいな効果も乏しい。 と言っても、枯れた印象は皆無。肩の力は抜けているけれど、活力とか張りは必要十分。 :::::::::: 素朴なくらいに正攻法なアプローチだけど、アンサンブルを操る並外れた力量が、この演奏を非凡にしている。 大筋では正攻法なアプローチだけど、ディテールの表現では、まるで作品と戯れるように、自在に遊んでいる。 フレーズを揺らしたら伸縮させたり、ワンポイントで特定のパートを際立たせたりみたいなことを、随所でやっている。 この曲をある程度聴いている人にしか伝わらないような小技中心に、楽曲のイメージを損なわない範囲で、思う存分やっている。 オーケストラは、ちょいちょい手探りで合わせている感じはあるけれど、老巨匠の意図をくみ取っている。 :::::::::: かなり自由な演奏だけど奇抜ではないから、楽曲を知る目的で聴いても支障無さそう。 でも、ある程度この曲を知っている人の方が、よりシューリヒトの芸を味わえて、楽しめるかもしれない。

コンヴィチュニーによるブルックナー交響曲第5番

イメージ
フランツ・ コンヴィチュニー 指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。 1961年のセッション録音。演奏空間を感じさせる鮮明なステレオ録音。 コンヴィチュニー (1901~1962年)は、旧東独で活躍した、チェコ出身の指揮者。1949~1962の間、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長を務めた。 :::::::::: 画然とした造形と、明晰なアンサンブルを基調としている。 楽曲の構造とか書法が、あいまいさなく、すみずみまで余すところなく描き出されていて、指揮者とオーケストラの非凡な力量をうかがわせる。 着実に拍を刻むので、堂々として恰幅が良い。ただし、低音部を厚く鳴らすバランスではなく、重々しさはない。 音符の点や線はくっきりしていて、アーティキュレーションの微妙なニュアンスまで掌握・制御している。 たとえば第二楽章の、伸びやかに歌いながら精緻に制御されたアンサンブルは聞き物。 ただ、良くも悪くも、全体通してお堅い空気があって、愉悦のような成分は乏しい。 :::::::::: 上にあげたような作法を踏まえつつ、この指揮者としては、ドラマティックな表現を狙っているようだ。 テンポを動かすし、揺らしもしている。ただ、曲の推移に即したもので、節度がある。 それによって、着実な足取りや明晰さが乱されることはない。 金管が全体に強め。と言っても、ほとんどは自然に感じられる枠内だけど、終楽章のコーダは例外。 思い切って勝負に出たかのような金管群の強烈さは、いささかうるさくて、極端に聴こえる。少なくとも、繰り返し鑑賞する音源向きではないと思う。

カラヤンによるブルックナー交響曲第5番(1954)

イメージ
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウィーン交響楽団。1954年のライブ録音。 カラヤンは、1948年から1960年にかけて、このオーケストラを率いていた。その時期の演奏。 :::::::::: 焦らず急がずの、堂々として安定した足取り。当時カラヤンは40代半ばだけど、若々しく颯爽とした感じではなく、大柄でカッチリとした造形を志向している様子。 とは言え、老巨匠の重厚感とは別種の感触。正確なコントロールと、流麗なフォルムとか透明度の高い響き故か。 各パートは軽い音の出し方。透明度が高くてしなやか。個々のパートの輪郭は、金管以外はあいまい。個々のパートを浮き彫りにするより、一体感のある響きを優先している。 程良くボリューム感があって、流麗な流れを形作っている。 :::::::::: 演奏スタイルとしての洗練度は高い。 ただし、このやり方だと、響きとしては綺麗だけど、表情の彫は浅くなるし、陰影も乏しくなる。音楽の全体的な流れはわかりやすいけれど、瞬間瞬間の密度は薄くなる。 サウンドの感覚的な美しさや耳当たりの良さで、長時間集中できる聴き手なら楽しめるかもしれないが、個人的には単調さを覚える。 これで、目くるめくような小気味よい推進力があれば別だろうけど、あいにくの落ち着いたテンポ。 おまけに、古いモノラル録音のために、サウンドの美しさは大きく減殺されているし。

ヨッフムによるブルックナー交響曲第5番(1958)

イメージ
オイゲン・ヨッフム指揮、バイエルン放送交響楽団。 1958年のセッション録音。 空間の広がりは乏しいけれど、鮮明で厚みのある音質。 ヨッフム(1902~1987年)は、1949~1960年の間、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者を務めた。その在任期間中の録音。 この指揮者による、この交響曲の録音は多数あって、全貌を把握できていない。 :::::::::: ヨッフムの耳の良さと、オーケストラから多彩でくっきりした表情を引き出す能力には、常々感心している。この方面で、ヨッフムと肩を並べられるドイツ系指揮者は、そんなにはいないと思う。 この音源でも、そのあたりは発揮されている。 低音厚めのサウンドバランスで、華やかというのではないけれど、全体通して、明朗で、張りと厚みがあるサウンド。 耳を傾けると、個々のパートの表情は明瞭で冴え冴えとしている。それらによるアンサンブルも、精妙と言える水準でコントロールされている。 力強い場面から繊細な場面に至るまで、音楽の表情はバッチリ決まっていて、うまみがある。 :::::::::: ただし、これはわたしだけかもしれないが、テンポ感がしっくりこない。 この演奏では、大きくテンポが動くことはないけれど、聴かせどころでときどき作品書法を際立たせるかのようにテンポを落とす。 テンポを落とすこと自体に抵抗感はないけれど、単に歩幅を広くしただけで、息遣いの変化が感じられない。深く大きな息遣いがもたらす気宇の広がり、みたいな効果は感じられない。 そのあたりは、あんまり上手ではないように感じた。

ベイヌムによるブルックナー交響曲第5番

イメージ
エドゥアルト・ヴァン・ベイヌム指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。 1959年のライブ録音(放送用音源)。良好なモノラル録音。  ベイヌム (1901~1959年) はオランダの指揮者。1945年から亡くなる1959年まで、同オーケストラの音楽監督を務めた。 この録音の1ヵ月後に、心臓発作で亡くなったらしい。 :::::::::: 亡くなる直前の演奏ではあるけれど、引き締まっていて、力強い。ビシッととしたたずな裁き。第一楽章の序盤から、気合がほとばしる。 テンポは速めの設定。テンポ自体は曲調の変化に合わせて切り換えられるけれど、全体通して、歯切れが良くて推進力に富む。 特に第三楽章は、コンセルトヘボウ管弦楽団の強靭なアンサンブルが際立つ。 サウンドは引き締まっている。低音控えめで、個々のパートはむき出しのように生々しく響く。重量感は控えめで、やや細身の筋肉質。 雄渾に演奏されることの多い終楽章あたりは、軽量級に聴こえる。ただ、フレージングの彫りが深いので、軽薄さ平板さはない。 :::::::::: 切り詰めたサウンドなので、豊かさを感じにくい。 また、弦や木管のパートは随所でしなやかかつ軽やかな表情を聴かせるものの、硬質で乾いた質感が一貫していて、潤い成分はほとんど無い。 それらのせいで、全体通して硬派でストイックな質感が支配的。逆に言うと、音楽の表情は多彩とは言いにくい。

クレンペラーによるブルックナー交響曲第5番(1957)

イメージ
オットー・クレンペラー指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団。 1957年のライブ録音。 1950年代後半のモノラル録音としても、鮮明とは言いにくい。また、第一楽章、第三楽章にはソースに瑕疵があるようで、部分的に聴き苦しい。 ただ、ノイズは少ないし、高音から低音までバランスよい音なので、聴きやすい。 :::::::::: テンポの設定は、全般的に速め。整然とかつ歯切れよく進行する。 歯切れ良い進行の中で、ディテールの表情が手際よく鮮やかに描き出される。洗練を感じさせる手並み。 各場面のニュアンスは適確に描き分けられているけれど、全曲通しての堅固な造形観を侵すことはない。 タメを作ったり、響きの余韻に浸ったり、クラスマックスで煽り立てるというような素振りはない。 頑なにインテンポだけど、リズムの調子とか、フレーズの歌いまわしとかは、明示的に切り替えられていて、音楽は刻々と表情を変えていく。単調さとは無縁。 オーケストラの洗練された捌きとか柔らかい響きが相乗して、品位を感じさせる。 ホール内を量感のある響きで充たすと言うより、確固とした造形から、響きが解放的に広がるようなサウンドイメージ。 :::::::::: クレンペラーの、造形美を堅固に保つ演奏スタイルは、終楽章のフーガ以降で威力を発揮する。 終楽章の演奏時間は22分少々なので、かなり速い。しかし、この指揮者独特の厚みを保ったまま切れよく刻まれるリズムとか、彫りの深いフレージングとかのおかげで、柄が大きくて押し寄せるように力強い。 フーガは静謐とともに始まるけれど、歯切れよく克明に増殖・拡大し、ついには豪壮なクライマックスに達する様は、この指揮者ならでは。壮快でありながら格調を感じさせる。 :::::::::: クレンペラーの同曲の録音としては、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団との1967年セッション録音、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との1968年のライブ録音がある。 作品の捉え方に変化はないけれど、聴いた印象はけっこう違う。 個人的な好みではこの音源をとるけれど、モノラル録音で、この指揮者の対位法処理の手並みを堪能するには限界がある。

ロスバウトによるブルックナー交響曲第5番

イメージ
ハンス・ロスバウト指揮、南西ドイツ放送交響楽団。 1953年のセッション録音。古いモノラルだけど、放送局の音源だけあって、とても鮮明。 ロスバウト(1895~1962年)はオーストリア出身の指揮者。1948~1962年にかけて、同オーケストラの音楽監督を務めた。 :::::::::: 軽くて柔らかい音の出し方。各パートの輪郭は明瞭だけど、それを損なわない程度のブレンド感がある。 明るめの均質な響き。かたよらないサウンドバランス。 楽曲の書法に込められたニュアンスを、鋭敏に明瞭に響かせるための、軽くて柔らかい音の出し方。 極端な強音・弱音は無い。音響効果や雰囲気に走ることなく、音の刻みや線的な動きを浮き上がらせ、それらのニュアンスとか、重なりとか、連動とかの加減で、表情を作り出していく。 軽快ではあるけれど、腰の軽い演奏ではない。 オーケストラは、質の高いアンサンブルで、過不足なく指揮者の要求に応えている。派手さはないけれど、そのことがむしろプラスに作用している。 :::::::::: 楽曲の書法を歪みなく、濁りなく表現することに軸足を置いている。 そのうえで、伸びやかかつしなやかなフレージングとか、ブレントされた音響美を堪能させてくれる。 というか、ロスバウトとしては、味付けとしてやっているのではなく、それらもブルックナーの狙いの一部と解釈しているのかもしれない。 陶酔したり、浸ったりというような風情は皆無。作曲の意図した効果に目配りするけれど、簡潔に提示するだけ。良くも悪くも、さっぱりした後味。 豪壮な終楽章のコーダですら、あっさりとして落ち着いている。

アーベントロートによるブルックナー交響曲第5番

イメージ
ヘルマン・アーベントロート指揮、ライプツィヒ放送交響楽団。 1949年録音モノラル。 アーベントロート(1883~1956年)は、ヨーロッパで活躍したドイツの指揮者。 1949年から1956年まで、ライプツィヒ放送交響楽団を率いていた。 :::::::::: 大柄でガッチリとした枠組みの中で、毅然とした、気骨のある音楽を展開している。 節目節目で、曲想の変化に合わせて、テンポ、リズムの刻み、節回し、力加減を自在に変化させる。 とは言え、変化の幅は一定の範囲にとどまっていて、全体としては揺るぎなく安定している印象。 :::::::::: 楽曲の捉え方はロマンティックだけど、口調は断定的で力強い。芯のある強めの線で作品書法を明解に描き出している。 表現の幅はそれなりに広く感じられるけれど、いかつさとか厳しさとかが支配的。金管群はしばしば威嚇的に響く。 もっとも、録音のせいでそのように聴こえてしまうのかも。 古いモノラル録音なので、音響に関しては類推になってしまうが、本来のバランスからすると、低音がやや弱いような印象。 ただし、演奏の方向性から察するに、分厚く響かせることより、しまりのある強靭な響きを狙っているように思われる。

フルトヴェングラーによるブルックナー交響曲第5番(1942)

イメージ
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。 1942年のライブ録音。 フルトヴェングラーの同曲の録音としては、他にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのライブ録音(1951年)がある。 :::::::::: 力がみなぎった、豪胆な演奏。 もっとも、力押しではない。全体通して、しなやかで抑揚の豊かなヴァイオリンの歌いっぷりは心地よく、硬軟織り交ぜている。 それぞれの楽章の中で、テンポの伸縮の幅が大きい。とは言え、テンポの基本設定のようなものはある。第3楽章はわりと速い。その他の3つの楽章は、速からず遅からず。 大胆な加減速だけど、楽曲の展開を踏まえているので、違和感はない。また、指揮者の計算とオーケストラとの共通認識の上での大胆なふるまいのようで、危なげない。 加速は畳みかけるようだけど、減速はさほど極端ではなく、全体としては引き締まって聴こえる。 ただし、終楽章は、他の楽章より腰を据えて、曲の多様な表情をじっくりと浮かび上がらせている。 クライマックスでは激しい追い込みを聴かせる。特に、コーダに突入する直前の急加速や、しめくくりでのティンパニの轟音は、この指揮者らしいケレン。 :::::::::: フルトヴェングラーのライブ録音にありがちな、特有の"誇張芸"が発揮されている。 計算されたテンポの加減速も一種の誇張だし、落ち着いた場面は弦群が主導し、盛り上がってくると大きな音を出すパートを前面に出す音響バランスの操作も誇張。 楽曲の生理を踏まえた誇張なので、違和感はないし、曲の展開はわかりやすくなっている。そういう意味ではよくできた芸風。 とは言え、しばしば内声部が覆われてしまい、響きのニュアンスから立体感とか多彩さが喪われ、音楽が直線的になる。 単調というほどではないものの、ある程度この曲を知っていて、曲の書法を味わいたい聴き手には、どこか大味に聴こえてしまいそう。

クナッパーツブッシュによるブルックナー交響曲第5番(1956)

イメージ
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。 1956年のセッション録音。古いけれど、ちゃんとしたステレオ。 シャルク改訂版による演奏。終楽章を中心に、他の版との違いが大きい。シャルク改訂版に対して、拒否反応が出る危険あり。 :::::::::: テンポの設定は、やや速め~標準くらいで、安定した足取り。浅くもなく深くもない呼吸感。 アンサンブルをコントロールして、作品書法を明解に聴かせようとする意識が強い。没入とか陶酔とか燃焼とかとは縁遠い感触。ドラマティックでも濃厚でもない。 各パートが明瞭に分離していて、それぞれの動きや絡み合いがくっきりと聴こえてくる。 アンサンブルは端整で明解だけど、整った美しさを追求しているわけではない。個々のパートの歌は陰影豊か。それらが集積されて、ロマンティックな絵巻物に仕上がっている。 そして、オーケストラの奏者たちのコクのある歌が、大いにプラスに作用している。何かしら、美意識を共有しているオーケストラとでないと、こういう演奏は難しそう。 :::::::::: テクニカルな精度とか完成度はほどほどなので、スタイリッシュな意味での洗練度は、そこそこの水準。 クナッパーツブッシュは、スタイリッシュ系指揮者がやりがちな、安易な表現のパターン化をやらない。あちこちに出てくる金管のファンファーレにしても、その一つ一つのニュアンスが細かく描き分けている。 そういう意味の密度が、この演奏の聴き所。 全曲締めくくりでは、オーケストラを開放的に響かせながら、多声の複雑な交錯が明解に、スリリングに描き出されていて見事。この指揮者の、オーケストラを統率する力量を見せつけられる。