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ナガノのサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団。 2014年のライブ録音。 ナガノは2006年から、同オーケストラの音楽監督を務めている。 前音楽監督デュトワは、1982年に、このオーケストラと同曲をセッション録音。 指揮者も体制も違うし、30年を超える隔たりもあるし、ナガノ盤に、デュトワ盤を偲ばせる要素はない。 :::::::::: 明解に、端正に、精緻に。これらを合言葉に、実直に作り上げられている。 弦を雄弁に歌わせて、表情にメリハリをつける、というタイプではない。すべてのパートが均等に近い目の細かさで編み上げられている。 全体的にお堅い演奏スタイルだけど、サービス精神だってある。第二部後半は壮麗に盛り上げて、特に終盤でのティンパニの瞬発力は痛快。他の音源と比べても、記憶に残るほど効果的。 :::::::::: ところで、ナガノの演奏スタイルは、すべてのパートをクリアに、均質に響かせることを志向しているようだけど、だとしたら、それ自体は不徹底に感じられる。 サウンドは緻密風だけど、実際には埋没しているフレーズとか、少なからずある。肌理は細かくても、精緻とまでは言えない。 生演奏ゆえに割り切ったところがあるのかもしれない。生なら「終わり良ければ総て良し」でも、こうして記録として鑑賞すると、割り切れないものが残る。

チョン・ミョンフンによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』(2016)

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チョン・ミョンフン指揮、ソウル・フィルハーモニー管弦楽団。 2016年のライブ録音。大型クラシック専用公演場"ロッテコンサートホール"の、開館記念公演を収録。 彼は、同オーケストラの音楽監督を、2005~2015年にかけて務めた。 後味の悪い辞め方をしたようだけど・・・ なお、チョン・ミョンフンは、1991年にパリ・バスティーユ管弦楽団と同曲を録音している。 ちなみに、演奏時間を比べると、第二楽章後半はほとんど同じで、それ以外は新録音の方が短くなっている。 :::::::::: 演奏のスタンスは、パリ・バスティーユ管弦楽団との音源に近いけれど、残念ながらそれより聴き劣りする。 新旧録音ともに、ホールの響きをふんだんに取り入れた録音だけど、旧録音の方は、アンサンブル自体にキレが感じられたし、明るい色彩感が気持ち良かった。 新録音の方は、オーケストラの持ち味なのか、ホールの特性なのか、艶とか色彩感が乏しく、キレもいま一つ。 よく言えばウォームな響きだけど、輪郭のあいまいな単彩なサウンドに終始している。 フレーズの処理も、旧録音の方が呼吸感があって、すんなりと入ってくる。それに比べて、新録音は淡白。 :::::::::: というように、新しいライブ録音の方は、旧録音と比べると、心ひかれる要素は少ない。 ただ、チョン・ミョンフンの名を損なうような出来かというと、そんなことはなく、生で聴いたらそれなりに満喫できただろう。オーケストラも危なげない。 そもそもこの音源は、イベントの記録であって、チョン・ミョンフンが新たに作品像を世に問う、みたいな位置づけではないのだろうし。

ジュリーニによるブルックナー交響曲第9番(1976)

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カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、シカゴ交響楽団。 1976年のセッション録音。 ジュリーニは、1969年~1973年までの間、シカゴ響の首席客演指揮者に就いていた。当時の同オーケストラの音楽監督はショルティ。 ジュリーニは、1988年に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と、セッション録音をおこなっている。 このほか、ライブ録音がいくつかある。 :::::::::: 作品の味わいと演奏者の音楽性とか、整ったフォルムと彫りの深い感情表現とかのバランスが絶妙。 この演奏が、ブルックナーの頭の中にあった音楽そのままとは思わないけれど、楽曲の構成とか書法を、至って明解に、歪みなく、曇りなく表している。 それでいて、指揮者やオーケストラの魅力も、隅々まで行き渡っている。 後年の音源に比べると、指揮者の個性は控えめに聴こえる。しかし、後の演奏が濃すぎるだけ。 この演奏には、ジュリーニの確固とした音楽性が映し込まれている。すっかり円熟している。 :::::::::: ジュリーニはまた、シカゴ交響楽団から、艶やかで厚みある響きを引き出している。 オーケストラから望むトーンの響きを引き出して、場面に合わせて鮮明な表情を作り出すジュリーニの手腕は冴えわたっている。 もっとも、あいまいさを排した色使いの明瞭な響きを、ブルックナーらしくないと感じる人もいるだろう。

エッシェンバッハによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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クリストフ・エッシェンバッハ指揮、フィラデルフィア管弦楽団。 2006年ライブ録音。 エッシェンバッハは、1987年にバンベルク交響楽団と、この交響曲を録音している。未聴だけど。 :::::::::: 全体的に、ゆとりあるテンポだけど、第一楽章後半は浸るようにゆっくりと進めるかと思えば、第二楽章前半はキビキビと駆け足でという具合に、けっこう切り換えてくる。 ただし、堂々として、ドラマティックな表現かというと、そういう印象ではない。サウンドが、かなり淡白だから。 低音をたっぷりと量感豊かに響かせながら、中高音パートは、軽い音出しと粘り気の無いフレーズで、繊細かつ軽快。 低音たっぷりでも、音が濁らないようにコントロールされていて、透明度は高い。 繊細さと豊かなスケール感が両立していて、芸風としてはなかなかのものだけど、艶もコクも煌めきもない。味の薄いサウンドに仕上がっている。 :::::::::: 指揮者の統率力にしろ、オーケストラの力量にしろ、この交響曲を味わうために必要なレベルを余裕で凌駕している。 しかし、淡白なサウンドと、大きめの煽りとが、なんだかちぐはぐに聴こえる。 クリアな音楽を狙っているとしたら、テンポの変化とかは少々作為的に感じられる。 逆に、壮大な音のドラマを狙っているなら、淡白なサウンドゆえに消化不良。 かと言って、これまでに聴いたことのない、新しいものが結実しているようにも聴こえない。

ネゼ=セガンによるサン=サーンスの交響曲第3番『オルガン付』(2005)

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ヤニック・ネゼ=セガン指揮、グラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団。 2005年のセッション録音。 ネゼ=セガンは1975年カナダ出身。この録音当時は30歳。 2000~2015年の間、同オーケストラの首席指揮者を務めた。 なお、彼は、この交響曲を、2014年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と再録音している。 :::::::::: テンポは中庸。音楽の起伏を自然に聴かせる。 特徴的なのがサウンド。 オーケストラの音の出し方は軽くて細やか。特に、繊細でほのかに艶がかっている弦や木管は心地よい。そして、演奏会場の豊かな響きを活かして(録音もそういう方向)、量感とか恰幅を生み出している。 一つ一つの楽器の音をむき出しにせず、響きで包み込んで、当たりの柔らかいサウンドをもたらしている。 こういうやり方自体は珍しいものではないけれど、色彩感と柔らかさが絶妙で、この指揮者のセンスの良さ、耳の良さ、統率力の高さを感じさせる。 :::::::::: もっとも、昂揚する場面での金管とか打楽器は、野太くて少々興ざめ。盛り上げるためにやっているのだろうけど、響きは盛大に濁るし、第二楽章後半あたりは大味に感じられる。 音響を磨くなら、大きな音、荒い音を出さないで、盛り上げる技を聴かせ欲しい。 もしかしたら、オーケストラの表現力に壁があるのかもしれない。

マゼールによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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ロリン・マゼール指揮ピッツバーグ交響楽団。 1993~96年のセッション録音。 ちなみに、オーケストラの演奏は1993年に録音され、オルガンのパートのみ1996年に録音されている。 マゼールは、同オーケストラの音楽監督を、1988~96年に勤めた。その時期の録音。 なお、マゼールは、かつてヴァイオリン奏者としてこのオーケストラに在籍したことがあるらしい。 :::::::::: 作品の描き方としては、最後の最後で音を長く引っぱる以外は素直。 ゆとりあるテンポ。オーケストラの音の出し方は軽くて、カラッと明るい。重量感とか艶とか陰影めいたものは乏しいけれど、気持ちよく広がって、スケール感はそれなりにある。 アンサンブルは細やかでクリア。肌理が細かく流暢。スムーズだけど、適度にディテールがきらめいて、心地良い。 ホールの音響は豊かだけど、そういうことを踏まえてコントロールされているから、サウンドイメージは明瞭。 この指揮者のセンスの良さ、うまさ、統率力の高さが表れている。 また、オーケストラは、固有の味わいみたいなものは乏しいけれど、十分にうまい。 :::::::::: 機能美とか音響としての心地よさはあるけれど、音のドラマとしての手ごたえは薄い。 オーケストラのカラッとしたトーンも影響しているだろうけど、最大の要因はマゼールにありそう。 マゼールのフレーズの扱いは、滑らかさとか明瞭さをことのほか重視し、その反面、"歌"を感じさせない。いわゆる感情表現のようなものは希薄。 この交響曲は、そんなに込み入った感情表現を要求する曲ではないけれど、陰から陽へという仕掛けはある。 良くも悪くも、この演奏は、そういったものを意識させない。音によるドラマみたいなものを期待すると、すかされてしまう。

ジュリーニによるブルックナー交響曲第9番(1988ライブ)

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カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。1988年のライブ録音。 別記事でアップしているセッション録音と近い時期の、生演奏(1988年6月11日)の記録。たぶん非正規録音。 :::::::::: セッション録音に関しては、非凡ではあるけれど、息苦しい怪演という印象をぬぐえなかった。 このライブ音源を聴して、ジュリーニのやっていることに、得心がいった。 と言っても、演奏の方向性は同じ。違っているのは、ジュリーニとかオーケストラのスタンスだろう。 この音源では、ジュリーニの"語り口"が前面に出ている。特に第三楽章は、曲調のせいもあって、楽曲にのめり込むようにして、自在な深い息遣いで歌い上げている。 一歩引いて聴くとけっこう息苦しい音楽だけど、指揮者が場の空気を完全に支配していて、並外れたカリスマを見せつける。 :::::::::: セッション録音も、楽曲の捉え方に違いはないし、緊張感もあったけれど、演奏者の意識は、磨き上げること、整えることに、より強く向かっていた。 ライブ録音ではパフォーマンス性が強いのに対して、セッション録音の方は、演奏そのものを"作品"と呼べる域に高めようとする意志を感じる。 だから、それぞれに優れた点があって、優劣はつけがたい。 ただ、ジュリーニの狙っているところが良く伝わってきて、かつ納得できたのは、こちらのライブ音源。

ジュリーニによるブルックナー交響曲第9番(1988)

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カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。 1988年のセッション録音。 知る範囲で、この曲のジュリーニの正規録音は4つある。この音源以外に、シカゴ交響楽団(1976)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1978)、シュトゥットガルト放送交響楽団(1996)。他に、海賊盤が1つ。 :::::::::: オーケストラ全体の音響をデザインするというより、フレーズの一つ一つを自身の美意識で磨いて、それらを束ねるような音楽の作り方。 フレーズの一つ一つに艶と粘りがあって、じっくりと入念に歌い上げられる。 張りと艶のある弦の歌い回しが一貫していて、全体の趣を支配している。 それらの総体としてのアンサンブルは、骨太で大柄。 徹底的にジュリーニ風味に料理された演奏で、揺るぎのない押し出しの良さは、巨匠の風格。 ジュリーニの到達した境地に感銘する。 :::::::::: 個々のフレーズは表情豊かに歌われているけれど、演奏全体が醸し出す調子は一定している。 楽曲の推移や展開より、ジュリーニの美学の方がより強く出ている。 張りと艶を終始欠かさない歌い回しのせいで、全体に陰影が乏しい。 また、ひたすら入念に磨くので、音楽の息遣いも変化が乏しい。 偏向の強い、怪異な演奏と言えるかも。 どの場面を聴いても同じようなトーンが支配しているので、聴き手との相性はシビアになりそう。

プラッソンによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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ミシェル・プラッソン指揮、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団。 1995年のセッション録音。 プラッソンは1933年生まれのフランスの指揮者。1968~2003年に、同オーケストラの音楽監督を務めた。その時期の録音。 :::::::::: 演奏の志向としても、録音の傾向としても、ホールのたっぷりと豊かな響きをひっくるめて曲想が描き出されている。 楽器の音の出し方は軽くて繊細だけど、包み込む豊かな響きのおかげで、か細さとか神経質さを感じさせない。 楽曲の構造自体は、恰幅の良くカッチリと造形されている。だから、ソフトフォーカス気味のサウンドだけど、気分に流れる感じはなく、堂々と安定している。 当たりはソフトだけど、各楽章の盛り上がる場面では、必要十分な高まりを形作る。 :::::::::: どこか鄙びたところのある、艶消しされたふくよかな音響は独特。 第一楽章後半あたりは、曲調にしっくりとはまって、吸い込まれそうな感覚にとらわれた。 しかし、他の部分では、もっと明晰にやった方が、サン=サーンスの洗練された書法の真価が、鮮やかに表れるように感じられた(好みの範疇だろうけど)。 サウンドの嗜好は特徴的だけど、それ以外については説得力を感じる。 たとえば、第二楽章後半で、堂々たる進行の中に、柔軟かつしなやかなアンサンブルが展開される様は、気持ち良いし聴き応えがある。 オーケストラは、第一楽章の冒頭あたりでは不安を感じたものの、全体としては十分に高いレベルだし、とりわけキレのある金管は爽快。

ヤンソンスによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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マリス・ヤンソンス指揮、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団。 1994年のセッション録音。  ヤンソンスは、1979年から2002年もの長きにわたって、同オーケストラの音楽監督を務めた。 その時期の、後期の録音。 個人的に、ヤンソンスは、どこかわからないところがある指揮者。そのわからなさは、その音源にも潜んている。 :::::::::: 楽曲に向かう基本姿勢は正攻法。作品の構造を端正に浮き上がらせつつ、音の動きの一つ一つに確実に表情を付けて明確に描き出す。作品の実像から逸れることのない、着実なアプローチ。 中低音がほどほどに豊かな響きが、カッチリした造形を包み込んで、むき出しにしない。 ヤンソンスの音響に対する嗜好なのだろうけれど、この曲には合っていないような。 豊かさが加わる反面、濁りとか粘りにもつながっている。響きがくすみがちで、色彩感の心地よさは乏しい。 :::::::::: 正攻法で質の高い音楽をやれる指揮者だけど、それだけでは終われないらしい。 仕上げの段階でそれぞれの楽章に、キャラ付け強めに施している。 第一楽章前半の厳しい佇まいに対して、後半はじっくりと歌い上げる。続く第二楽章前半は活発に。 ここまでは順当だけど、第二楽章後半は賛否が分かれそう。 豪快な味付けだけど、あえて羽目を外している。目につくところをあげると、冒頭での過剰なまでに豪壮なオルガンとか、エンディングでの音の長すぎる引き伸ばしとか。 少なくともわたしには、半端でわざとらしく聴こえた。 ヤンソンスのは、まじめな優等生が、意図的にやんちゃをやっているみたいな、割り切れていない調子が付きまとう。 わたしたちはすでに、フルトヴェングラーやムラヴィンスキーのような、とことんやってしまう存在を知っているわけで・・・

チョン・ミュンフンによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』(1991)

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チョン・ミュンフン指揮、パリ・バスティーユ管弦楽団。 1991年のセッション録音。 彼は1989~1994年に、パリ・オペラ座(バスティーユ歌劇場)音楽監督を務めたが、その頃の録音。 :::::::::: 個々のパートの線の動きを際立たせるより、それらをブレンドして、一つの大きな流れを生み出していく。 その流れを自在に色づかせ、しならせて、壮快な音楽を作り上げている。 この曲の描き方としては、構築性めいたものは乏しい代わりに、感覚的な要素が強く出ていて、柔らかく豊かに広がるサウンドが心地よい。 しかし、甘口なだけの表現ではない。ソフトな響きの内側に、活気とか反射神経の良さが感じられる。 第二楽章後半あたりは、はつらつとした開放感が気持ち良い。今聴いてもフレッシュ。 :::::::::: 個々のフレーズは、交響曲を構成する柱というより、豊かな響きの彩として扱われている。 逆に言うと、ポリフォニックな作品書法の楽しさ(立体的に音が交錯するようなイメージ)は乏しい。録音も、そうした感触を助長する。 そういう意味で、この交響曲のある部分、そこそこ重要な部分が切り捨てられているような印象。 もっとも、この演奏自体に、強い自己顕示とか灰汁を感じない。己の感性に忠実に、伸びやかに表現している。

Ubuntu MATEをThinkpad X201に、インストール。ついでにSSD化

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wattOS R9を載せていたThinkpad X201だが、現状ではUbuntu MATEに変更している。 そうなるまでの顛末を振り返る。 《wattOSを後回しに》 2017年6月頃に、Ubuntu 16.04 LTSベースの軽量Linuxディストリビューションに乗り換えたくなった。wattOSを気に入っていたので、R10にバージョンを上げるべく、wattOSのサイトへ。 そうしたら、R11がComing Soonとなっていたので、待つことに。 そして、待っている間に、他のLinuxディストリビューションを試すことにした。 ちなみに、半年経過後の現在も、R11はComing Soonのまま。 《Ubuntu MATEに落ち着く》 試したのが、以下の4つ。 Linux Mint 18.2 Xubuntu 16.04.3 LTS Lubuntu 16.04.3 LTS Ubuntu MATE 16.04.3 LTS Linux Mintは、見た目は気に入ったものの、マイナーなトラブルがちらほらと発生。面倒になって消した。 Xubuntuは、デスクトップ環境のXfceが好みに合っていた。軽量なわりに貧相に見えないギリギリをうまくついているというか。 しかし、ディスプレイ・ドライバが不安定なので消した。 Lubuntuは、もと使っていたwattOSにもっとも近いので、期待した。しかし、ロゴとか見た目とか野暮ったい印象を受けたので、間もなく消した。 その後、Ubuntu MATEに落ち着いた。初期設定の外観は好みじゃなかったが、ちょっと手を加えると好みに近くなった。 そして、動作はこれまでのところ安定している。 また、軽量とは言い難い容量だけど、起動や終了にかかる時間が短い(体感での印象)。 Thinkpad X201は、確かに古い機種だけど、事務作業をやっていて支障を感じることはなく、こちらとしてはまだまだ現役という感覚で使っている。 しかし、今回いくつか試して、予想以上にマイナートラブルがあった。 ちなみに、インストールそのものは、どれもスムーズだった。 《独自設定はガンマ調整くらい》 wattOS R9のときは、インストール後に、いくつかカスタマイズしていた。 Ubuntu MATEは、起動...

プレートルによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』(1990)

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ジョルジュ・プレートル指揮、ウィーン交響楽団。 1990年録音の交響曲全集より。  プレートルは、1963年に、同曲をパリ音楽院管弦楽団とセッション録音している。 1963年盤は、精悍でドラマティックな表現と、パリ音楽院管弦楽団の持ち味が特徴的な音源だった。 一方、この音源は、65歳という円熟期の録音。オーケストラやオルガン奏者(アラン)、レーベルも変わって、印象はかなり異なる。 :::::::::: 大きな構えの、堂々とした演奏。 安定した歩みだけど、ギッチリ引き締めるのではなく、多少ゆとり(緩み)を残した造形。 一定の範囲の中で、息遣いを変化させる。駆り立てることはないけれど、ちょいちょい浸ったりタメたりする。 各パートは、明解に鳴らしわけられていて、作品の書法が分かりやすい。響きの透明度を上げることによる明解さではなく、音の輪郭をしっかり鳴らした上での明解さ。 そして、個々のパートに、活き活きとした表情を施している。 厚みのあるサウンドイメージだけど、見通しが良いせいか、もたれることはない。 ::::::::::  磨かれた音響とか、合奏の整然とした美しさみたいなものは乏しい。  整えられているけれど、磨かれているというほどではない、くらいの質感。 このあたりは、プレートルの限界ともとれるし、見方によっては、洗練より生命感を重んじる演奏姿勢の反映ともとれる。

レヴァインによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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ジェイムズ・レヴァイン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。 1986年のセッション録音。 :::::::::: 剛腕指揮者が、抜群にうまいオーケストラのポテンシャルを引き出して、たくましくて恰幅の良い音楽を繰り広げている。 激しい場面では、合奏の精度を保ちながら、ここまで激しくエネルギッシュできるのだと、そのドライブ力を見せつける。 一方、第一楽章後半では、彫りの深い落ち着いた表現を、堂々と聴かせる。 レヴァインのビシッとした統率に、オーケストラの合奏力と腰の強いサウンドがあいまって、迫力満点。 第一楽章前半での、対位法的な秩序を保ったまま荒れ狂うような、整然としたうねりは圧巻。 :::::::::: 大柄なたくましさが前面に出ており、圧迫感が強い。 サウンドは、張りと艶があって、均質にそろっているけれど、透明感とか、抜けるような開放感は乏しい。 一級のオーケストラを、屈託なく豪快に搔き鳴らすので、この交響曲が、派手な演奏効果の塊のように聴こえる。 大筋ではそういう曲だと思うけれど、ここまであっけらかんとやられると、単純化され過ぎているようにも聴こえる。 聴き手の作品像に、すんなりフィットするとは限らないような気がする。 :::::::::: とは言え、これらのことは、好みの問題だろう。 指揮者もオーケストラも、ある面では、開いた口が塞がらないくらい高い水準に達している。

小澤征爾によるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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小澤征爾指揮、フランス国立管弦楽団。 1985~86年のセッション録音。 オルガンは別録りしたものを、合成したらしい。 :::::::::: 結論から言うと、期待外れ。 とりあえず録音のクォリティが残念。大浴場のような音響。 同時期に、他のメジャー・レーベルが、この交響曲の好録音を世に送り出していたことを考えると、演奏者に同情したくなるような出来栄え。  唯一のとりえは、フォーカスが甘いせいで、オーケストラとオルガンの合成の痕跡がマスクされている点かと。 :::::::::: 量感はほどほどだけど、広がりのあるサウンド。柔らかく広がる響きの中で、軽快かつキレのあるアンサンブルが繰り広げられている。 しなやかで機能的。粘り気とか歪みを感じさせない、清潔なフレージング。 弦の音量を絞り気味にして、細かな音の動きまで、浮かび上がらせようとしている。  第二楽章前半などは、他の演奏では聴き流してしまいそうな、細かな音が印象的に浮き彫りにされていて、指揮者の確かなハンドリングを感じる。 ただ、録音がそれらをとらえきれていない。こちらが耳をそばだてないと、演奏者の芸が伝わってこない。 この曲を楽しむために、何気なく聴くなら、それなりに楽しめるかもしれない。 しかし、録音時期の近い競合盤の存在を考えると、失望が大きい。 :::::::::: オーケストラ、演奏会場、オルガンとその奏者と、指揮者以外はフランス尽くしの音源。本場の味わいを記録することに、軸足が置かれていたのかもしれない。 小澤の清潔感(?)のある演奏スタイルは、それ自体がフランス風とは感じないけれど、もろもろのテイストを引き出すのに適している。 ただ、小澤自体の存在感は薄まってしまった。

デ・ワールトによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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エド・デ・ワールト指揮サンフランシスコ交響楽団。1984年のセッション録音。 デ・ワールトは、1941年生まれのオランダの指揮者。 1977年~1985年の間、同オーケストラの音楽監督を務めた。この音源は、音楽監督時代終盤のもの。 この音源で、とりあえず好ましいのが録音。広々とした空間の中に、程良いブレンド感のサウンドが浮かび上がる。 :::::::::: 端整で引き締まった造形。響きの量感は控えめで、各パートが整然とバランスよく響く。  サウンドに特徴的なトーンは無くて、清潔感のある無色の響き。 スケール感とか音色の色彩感は乏しい。 けっこう鍛えられている感じのアンサンブルは、覇気があって緊密。また、響きは均質に整っている。上質感がある。 キビキビとした進行と筋肉質な造形とがあいまって、スポーティと言ってもいいくらい。 ただし、体育会系一辺倒ではなく、端整で程良くブレンド感のある響きは、耳に心地よい。 :::::::::: デ・ワールトは、自己主張めいた演出は、良くも悪くもやっていない。演奏効果よりも、合奏の節度とか品位みたいなものに価値を見出しているようなアプローチ。 エンターティナー的な面での訴求力は弱い演奏だけど、上質なアンサンブルを堪能する満足感はある。 この曲を知るために聴く演奏としては、いささか禁欲的。ただし、濃くキャラ付けされた演奏の後に聴くと、どこか清々しい。

スヴェトラーノフによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソ連国立交響楽団。 1982年のセッション録音。 スヴェトラーノフの同曲の録音としては、スウェーデン放送交響楽団との1998年のライブ録音があるようだ。 残響過多な録音。オーケストラのやっていることは聞き取れるから、鑑賞にはさしつかえないけれど。 :::::::::: とりあえず、終始音響の濁りがある。 録音の影響はありそうだけど、演奏にも原因がありそう。 オーケストラの各パートのバランスは整っているけれど、全体としての響きの質感は制御されていない感じ。そういう点で、演奏のクォリティとして、一段落ちる印象。 この曲のような、巨大な音響をもたらす音楽では、気になってしまう。 :::::::::: オーケストラの音の出し方は軽くて、各パートの細かな動きが浮き彫りになっている。 ただし、対位法的な立体感とか奥行き感とかは無い。それぞれのパートが、平面的に並置されているイメージ。 音響としての量感はあるから、平板には聴こえないけれど、作品書法が他の演奏より武骨に聴こえる。 各パートを並置してそれぞれを浮き彫りにしつつ、たっぷりと響かせているから、テンポは全体的に遅くなり、雄大な仕上がりになっている。 この演奏なりに、意味のあるテンポであり、スケール感ではある。 作品書法の捉え方が、根本的なところで他と違っているので、まったく個性的。 :::::::::: 第二楽章後半の、木管が美しくたなびくところで、ハープを加筆している(たぶん)。気持ちはわかるけれど、どこか泥臭い。 スヴェトラーノフの感性が、サン=サーンスの洗練と融和しているようには聴こえない。 しかし、スヴェトラーノフがこの曲に愛着をもって演奏しているらしいことは伝わってくる。

デュトワによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団。 1982年のセッション録音。 デュトワは、同オーケストラの音楽監督に1977年に就任。 1980年代に入って、DECCAから次々と音盤をリリース。 その中では、わりと初期の頃の録音。 :::::::::: このコンビの一連の録音は、その一部しか聴いていないけれど、デュトワの、響きに関する鋭敏な感性と、アンサンブルへの美意識が、インパクトとして強い。  おまけに、録音も優秀でセンスが良い。 オーケストラは、軽い音の出し方で、しっとりとした質感のサウンド。色彩的だけど、華やかというのではなく、落ち着いた上品な色調。 アンサンブルは、肌理がそろっていて、軽快かつ反応が良い。 力感とかスケール感は控えめだけど、そっちを向いた演奏でないことは明白。 軽やかで洗練された所作と、上品で耳のあたりが良い響きが、何よりも優先されている。 これだけ徹底的かつ見事にやっているのだから、無いものねだりは野暮というもの。 :::::::::: もともと洗練度の高いサン=サーンスの書法を、デュトワのセンスと技でいっそう磨き上げて、聴かせる。 そういう意味で、作品の持ち味を引き出しているけれど、だからと言って、その持ち味のすべてに光を当てているわけではない。他の演奏にあって、この演奏にないものは、少なからずあるから。 やっていることについては、他を寄せ付けないレベルに洗練されているけれど、楽曲を自分の型にはめ込んでいる。そして、その型のキャパは、そんなに大きくないようだ。

カラヤンによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。 1981年のセッション録音。同曲の、カラヤン唯一の録音盤。 なお、オルガンはパリのノートル=ダム大寺院にて別録音したものを、合成しているらしい。  :::::::::: 安定したリズムの上に音楽を構築していく手並みに、独墺系の演奏っぽさを漂わせるものの、豊麗で透明度の高いサウンドが、すっかり中和している。 結果的には、堂々としたスケール大きな演奏、という手ごたえ。 広々とした空間に、量感たっぷりに響かせながら、そのニュアンスとか色調を、完全にコントロールしている。 各パートは、ソフトフォーカス気味にたっぷりと鳴らされるけど、それぞれの輪郭とか純度は保たれていて、場面場面の表情を、わかりやすく決めてくる。  かつ、それらが一体となって、豊麗なサウンドを生み出されていく。 オーケストラを響かせることについての、この指揮者の屈指の力量を見せつけられる気がする。 :::::::::: カラヤンは、楽曲の構造とか書法を、いたって素直に扱っている。 場面によっては、パート間のバランスに工夫を感じるけれど、特異なことはやっていない。 それと対照的に、音響へのこだわりを強烈に感じさせる。 良くも悪くもカラヤンの美学が徹底され、磨き上げられている。 その結果生み出される、終始たっぷりとしている響きや、粘りのあるリズムと歌い回しが、濃厚な味わいをもたらしており、いささかしつこくはある。

バーンスタインによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏。1976年のセッション録音。 ハーンスタインは、1958~1969年の間、同オーケストラの音楽監督を務めた。 これは退任後の、バーンスタインが欧州での活動を活発化させていた頃の録音。 ちなみに、この時期の音楽監督はブーレーズ。 :::::::::: 体感上のテンポも、演奏時間からしても、ゆっくりとした足取り。 ハーンスタインは、すべてのパートを個別に際立たせて、それぞれに生々しく粘っこい表現を要求している。 パート間の主従関係を明確にして、場面ごとに明確なトーンをもたらす指揮に比べると、作品書法の多様性が、密度高く描き出される。 特に、ここでは入念な手つきなので、濃密に感じられる。ゆっくりした足取りは、彼の流儀を徹底した結果の、自然の成り行きだろう。 いずれにしても、この交響曲の表現としては、異色な味わい。 :::::::::: バーンスタインのやり方のデメリットは鈍色のサウンド。個々のパートの響きが常にむき出しで、オーケストラ全体としての色調の変化は乏しい。 演奏技術の拙さによるものではなく(むしろ、この演奏の技術レベルは高い)、バーンスタインの演奏スタイルの副作用だろう。  いずれにしろ、音楽の展開を、響きのトーンの遷移として描き分けられないのは、辛いところ。 たとえば、静謐感が漂うはず(?)の第一楽章後半でも、濁りと息苦しさが 終始付きまとっている。 第二楽章の前半から後半への移行部でも、光明が差し込んでくるような気分を味わえない。

オーマンディによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』(1962)

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ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団。1962年のセッション録音。 このコンビで、同曲を3回セッション録音しており、この音源はその最初のもの。 1960年前後のオーマンディの音源は、ドライで高音キツメで、空間の広がりを感じにくいものが多い。この音源はその典型。 細かいところはよく聴こえるけれど、自然な音響とは言いがたい。 :::::::::: この交響曲のレコーディングの中でも、たぶん、かなり個性的な演奏。 まず、オーケストラの編成が小さいのか、この曲らしい壮大な音響は聴かれない。 ありがちな、広々として空間に、量感たっぷりオーケストラを響かせるアプローチとは真逆で、個々のパートの線が重視されている。 内声部がとても雄弁。 木管は、弦と対等とまでは言えないけれど、存在感は大きい。 ヴァイオリンは対向配置になっており、左右の掛け合いを通して、表情を作り出している。 金管パートも、派手な振る舞いはなく、分をわきまえている。 演奏の精度は高いものの、中低音をふくよかに響かせて、神経質な印象を与えない。ただ、全般的に明るくて乾いた響きに統一されており、色彩感めいたものは乏しい。オーケストラの持ち味なのか、録音の特性なのか・・・ :::::::::: こじんまりとしているけれど、線の細い弱々しいアンサンブルではない。リズムやフレージングには、キレとか張りがあってエネルギッシュ。 盛り上がる場面では、音塊としての圧力はないけれど、畳みかける迫力はある。 :::::::::: 指揮者とオーケストラは、やりたいこと、やるべきことをやり上げている。ただ、この曲の一般的なイメージからは距離があるかもしれない。 この指揮者の音楽性は興味深いけれど、聴き手の側では好みが分かれそう。

バレンボイムによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団。1975年のセッション録音。 ちなみに、バレンボイムは、1991~2006年にかけて、シカゴ交響楽団の音楽監督を務めた。 この音源は、それよりかなり前の、バレンポイム33歳のときの録音。 オーケストラとオルガンが、別の機会に、別の場所で録音されて、合成されている。 スピーカー越しに聴くと、合成のキズ痕は意識されないが、遠近に少し違和感を感じる。一方、ヘッドホンで聴くと、部分的に、音場の不自然さを意識させられる。 :::::::::: この音源の主役は、シカゴ交響楽団と、録音スタッフだろう。 軽い音の出し方、明るく色彩的な響き、畳みかけるテンポ感、切れ味抜群の精緻かつ機能的なアンサンブル。音楽監督ショルティ、首席客演指揮者ジュリーニという時代の、シカゴ交響楽団の圧倒的な性能を実感できる。 :::::::::: 一方、バレンボイムの存在感はそんなに大きくは感じられない。 軽い音出しやすっきりと明るい響き、流れるようなスムーズな進行は、バレンボイムの意志だと思われるけど、それ以上の踏み込みは感じ取れない。 大枠の方針を決めたら、後はオーケストラを統率し、制御することに専心している感じ。 そして、高いレベルでやり遂げているけれど、指揮者本人の曲への思い入れみたいなものは感じられない。 しかし、後年のバレンボイムの芸風にシンパシーがないので、残念なような、残念ではないような・・・ いずれにしても、もっぱら音響美・機能美を楽しむ演奏で、この交響曲の描き方としては"あり"だろう。 :::::::::: 第二楽章後半のような多様で目まぐるしく変化する音楽では、あっさり風味。曲自体の面白さより、オーケストラの性能の高さが先に立つ印象。 一方、第一楽章後半の、いい意味で混じりけの無い、澄み渡るような表現・響きは好ましい。  オーケストラの響きは、フォーカスがシャープな点で、本場フランス風とは言いにくいものの、明るく軽快なところは、曲想に合っていて好ましい。

マルティノンによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』(1975)

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ジャン・マルティノン指揮、フランス国立管弦楽団。1975年のセッション録音。 全集から。 マルティノンは、1970年にも同じオーケストラ(ただし名称はフランス国立放送管弦楽団)と正規録音している。ただし、オルガン奏者は異なる。 録音時期が5年しか空いていないので、どうしても比較してしまう。 同じ指揮者とオーケストラと知って聴けば、共通点は多い。でも、相違点もあるから、別のフランス人指揮者と言われたら、真に受けるかもしれない。そのくらいは違っている。 と言っても、大きい違いではないから、マルティノンの作品の捉え方が変わったというより、録音に臨む姿勢とか心境の差異という印象。 :::::::::: 1970年録音のERATO盤が自然体風だったのに対して、こちらの音源では、けっこう表現を作り込んでいる。 造形は堅牢で平明。堂々として厚みがある。クリアな響きを配慮しつつ、線がクッキリとした、張りのある音の出し方。 場面ごとの表情の付け方は、その推移を聴き手に意識させるように、メリハリが強い。 と言っても、楽曲を自分の色に染めるというより、己の表現力をフルに発揮して、作曲者の意図を表出し尽くそう、という感じ。奇抜なところはない。 いずれにしても、本場の指揮者とオーケストラに期待されるような、 特別な味わいは乏しい。かろうじて、明るめの開放的なサウンドくらいか。 あくまでも、交響曲としての構成とか書法を歪みなく明解に描き出すというのが、マルティノンの立ち位置のようだ。 :::::::::: マルティノンという指揮者の表現力を堪能する、という意味では、1970年のERATO盤より、 こちらの録音だろう。こだわりや工夫がすみずみまで行き渡っている。 そして、風格を感じさせるのもこちらの方。 ただし、ERATO盤のストレートさを、より好ましく感じるとしても、不思議ではない。

フレモーによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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ルイ・フレモー指揮、バーミンガム市交響楽団。1972年のセッション録音。 フレモー(1921~2017年)はフランスの指揮者。1969年から1978年まで、バーミンガム市交響楽団の音楽監督を務めた。 :::::::::: スケールの大きな枠組みに、広々とした音響空間。その中で、繊細な表現が軽やかに繰り広げられる。 各パートの発音は軽くて線が細い。それらが、そよぐようにして、繊細感のあるアンサンブルを繰り広げる。 ただし、逸ることなく、気分や雰囲気に流れることもなく、確実な足取りなので、演奏全体から受ける印象に弱弱しさはない。 盛り上がる場面での手腕は聞き物で、そんなに大きな音を出していないけれど、歯切れよくボルテージを上げて、壮快に盛り上げる。 フレモーの周到な設計と、オーケストラを統率する力に、感心させられる。 :::::::::: オーケストラの演奏の質も高い。響き自体には湿り気があって、この曲にふさわしい華やかさはない。  しかし、フレモーの質の高い要求にしっかり応えている。 このオーケストラは、サイモン・ラトルの時代に名声を高めたけれど、フレモーのときから、レベルの高いアンサンブルをやっていたようだ。 :::::::::: 演奏のクォリティは秀でているけれど、この交響曲の表現としては、全体的に渋め。 サウンドのくすんだ質感の影響は大きいかも。 また、作品書法を明晰に聴かせることに意識を注いでいる反面、場面ごとの空気感とか気分の切りかえみたいなものは、弱まっているような。 それと、息遣いが生硬く感じられる箇所がいくつかあった。

マルティノンによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』(1970)

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ジャン・マルティノン指揮、フランス国立放送管弦楽団。 1970年のセッション録音。 マルティノンは、1975年に、交響曲全集の一環で、同じオーケストラと再録音している(オルガン奏者は変更)。 :::::::::: 交響曲らしくカッチリ構築しつつ、粗くならない程度にオーケストラをドライブして、盛り上げている。 アプローチとしては正攻法で、特に何かを強調することはないけれど、個々の表情はほどほどに雄弁。特筆すべき特徴は見当たらないけれど、楽曲のポテンシャルはしっかりと引き出して、退屈させない。 堂々としていながら、推進力や盛り上がりも必要十分。 等身大と感じられる、バランスの良い作品像。 :::::::::: 鮮明さを欠く録音は、おそらくこの音源最大のウィークポイント。ただし、音の抜けはそこそこある。 靄ついているけれど、柔らかさと開放感のある響きは、曲調ともオーケストラの持ち味とも合っているかも。 アンサンブルは、目鼻立ちはハッキリしているけれど、肌理がそろっているというほどではない、といったところ。気力は充実しているので、いい意味で生っぽく聴こえる。 レコーディングだからと表現を作り込むのではなく、自然体で演奏しているような雰囲気。 :::::::::: 演奏の品質を項目別に採点するとしたら、抜きんでたところは見当たらない。 だけど、楽曲の持ち味を五体満足に堪能したい、という目的なら、 けっこう上位に来そうな音源。

メータによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』(1970)

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ズービン・メータ指揮、ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団。 1970年のセッション録音。 メータは、後に、1995年にベルリン・フィルと、2007年にイスラエル・フィルと正規録音している。 ということは、得意な楽曲ということだろう。 この音源は、40代半ば頃の、実力派若手指揮者として注目を浴びていた時期の録音。 :::::::::: 第一楽章前半とか第二楽章は、キビキビとして機能的。 一方、第一楽章後半は、弦を濃い目に、じっくりと歌わせる。静けさとか穏やかさより、粘りのあるフレージングで歌い上げる。  熱気と推進力が強いけれど、前のめりにはなっていない。アンサンブルはコントロールされていて、オーケストラの技術は高い。しなやかさと機能美を印象付ける。 サウンドとしても、量感はたっぷりだけど、見通しは良くて、内声部の動きは明瞭。 交響曲としてガッチリ造形するより、演奏効果本位の自在な表現。 :::::::::: 指揮者の統率は確かだし、オーケストラの技術は高い。そして、熱っぽい表現と、アンサンブルの洗練を両立させていて、やっていることのレベルも高い。 しかし、サウンドとして迫力はあるけれど、 アンサンブルの機能性が前に出過ぎていて、音楽そのものは大味に聴こえる。 対位法的に音が交錯する場面でも、スルスルとひたすらスムーズに進行するので、音楽の細かな凹凸みたいなものが見えてこない。 第二楽章後半とか、キビキビとした進行の中で、オーケストラは多彩に表情を変転させていく様は見事。 だけど、その一つ一つのきらめきが弱くて、あっけなく通り過ぎていく感じ。 結局、耳に残るのは、金管の生々しい響きとかだったりする。

ミュンシュによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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シャルル・ミンシュ指揮、ボストン交響楽団。 1959年のセッション録音。 古いステレオ録音で、音質の抜けとか透明度はイマイチだけど、オーケストラの表現は細かなところまで聴き取れるし、ダイナミックな音響が生々しく捉えられている。 ミュンシュは、クリュイタンスの前に、パリ音楽院管弦楽団の首席指揮者を務めていたくらいなので、少しくらいは本場のテイストを期待してしまうかもだが、そういうのは乏しい。 基本的には、豪快でパワフルで明朗な、アメリカンなテイスト。 ただ、各パートのフレージングは、けっこうしなやかなで、それをフランス風と言うつもりはないけれど、曲想には似つかわしく聴こえる。 :::::::::: 親しみやすい曲想に派手な音響効果が目につくだけに、オーケストラを派手に掻き鳴らすタイプの演奏が少なくない。 この音源は、レコーディングとしては、そうしたアプローチの原点の一つだし、現状においても存在感は大きい。 ミュンシュの、オーケストラをドライブする能力が、専ら良い方向に作用している。 描かれる作品像自体は、至って素直。 ことさらの演出めいたものは見当たらない。テンポの設定はやや速めだけど、煽り立てるほどではないし、足取りは安定している。 サウンドは厚くたくましいけれど、造形もアンサンブルも終始一貫して明快に保たれている。 楽曲には自然体で向き合い、明快さを確保しつつ、オーケストラを一体としてうねらせて、躍動させている。 :::::::::: 録音の影響があるのかもだが、陰影のようなものは乏しい。あくまでも明朗でたくましい。 繊細さとか、淡い色合いの変化みたいなものを求めると、あてが外れそう。 ただし、表現の幅はそれなりに広い。曲調の変化に自然に反応していて、穏やかさ、崇高さだって、十分に表出している。 第二楽章の、前半から後半に移行する場面での、上昇する音型がもたらす静けさとか、堂に入ったものだ。

プレートルによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』(1963)

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ジョルジュ・プレートル指揮パリ音楽院管弦楽団。1963年のセッション録音。 ちなみに、オルガンを演奏しているのは、作曲家としても知られるモーリス・デュリュフレ。 なお、プレートルは、1990年に、ウィーン交響楽団と再録音している。 :::::::::: 雄渾でドラマティックな表現。 単に激しい演奏というのではなく、音による戦記の一大絵巻みたいなノリで、骨太に音楽をうねらせる。演奏空間に音響が充満し波打つ。 そして、オーケストラがパリ音楽院管弦楽団だけに、華やかで開放的な響きが一貫している。技術的な巧拙とは別次元の、雄弁さを感じる。 盛り上がる場面での、力強くも柔軟な金管セクションの表現力は聞き物。また、穏やかな場面での、ブレンドされた美しいアンサンブルも印象的。 録音も、ホール全体の響きを捉えている。ただし、録音に関しては、成功していないようだ。サウンドの混濁感が強すぎる。 :::::::::: 場面場面で、前に出す音、ひっこめる音のメリハリがはっきりしていて、痛快なくらい思い切りがいい。 アンサンブルの精度より、動的な息遣いを重視する流儀。荒っぽく聴こえるけれど、要所要所は押さえられているので、繰り返し楽しめる。 探さなくてもいくつも粗は見つかるけれど、他の音源では味わえない魅力や面白さが複数あって、外せない音源。パリ音楽院管弦楽団の実力を偲ぶ記録としての価値もある。

ポール・パレーによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付』

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ポール・パレー指揮デトロイト交響楽団の演奏。1957年のセッション録音。 古いステレオ録音ながら、音質は鮮明。 パレー(1886~1979)はフランス人。自らが育て上げたデトロイト交響楽団との音源が多数。 :::::::::: 確固とした自分のスタイルを持った指揮者。明晰さへの飽くなきこだわり。そして、手兵を鍛え上げて、己の美意識を実体化してしまう手腕。 スッキリと切り詰められた造形と、透明度が高くて開放的なサウンド。軽快で歯切れ良いアンサンブルが、スムーズに運動しながら、楽曲の構成とか書法を、すみずみまで浮き彫りにしている。 面白いのことに、明晰さにとことんこだわりながら、合奏の精度にはところどころ緩みがある。根っこのところはとことんこだわるくせに、仕上げはおおらか。 :::::::::: こういった特徴は、パレーの他の音源でも感じられたことだし、この音源でも顕著。 空間に音響が飽和する、みたいな状況は皆無。空間的な広がりを感じさせながら、響きは曇りなく晴れ渡っているかのよう。 裏を返すと、音響がうねったり、漂ったりみたいなのも期待できない。響きの陰影とか、色彩感とかも乏しい。 安定したテンポをベースに、多彩な表現を歯切れよく繰り出し続ける。締めくくりも、豪快さより、切れの良さで盛り上げる。 デトロイト交響楽団は、抜けの良い乾いた音色で、機能性が際立っている。 :::::::::: パレーの明晰さは、音響美とか愉悦を実現する手法としての明晰さではなく、明晰であること自体が目的のように聴こえる。 むき出しの明晰さであり、それを心地よく感じない人もいるだろう。 個人的には、頑固一徹の辛口度合いが楽しい。

アンセルメによるサン=サーンス交響曲第3番『オルガン付き』

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エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団。1962年録音のセッション録音。 アンセルメは、デッカ・レーベルの看板指揮者のひとりとして、1950年代から60年代にかけて膨大な数のレコーディングをおこなった。 デッカは、録音のクォリティの高さをアピールしていて、ショルティの『指輪』の全曲録音がその典型だけど、アンセルメもレーベルの戦略に乗って名声を高めた一人。 このサン=サーンスの音源は、発売当時、迫力ある録音で話題になったらしい。 :::::::::: アンセルメは、やや遅めのテンポを設定し、一つ一つのパートの動きや表情を、明晰に聴かせる。 他の複数の演奏の後に聴いても、何かしらハッとさせられる瞬間がある。 フレージングは、しなやかにクッキリとしている。硬くならず、かといって気分に流れることもない。 曲が曲だけに、低音には厚みがあるけれど、あくまでも豊かに広がる質の低音。広々とした空間を感じさせるけれど、濁りや鈍さを感じさせない。 金管がやや強いものの、平明なサウンドバランスで、楽曲の構成とか書法が、透けて見えるように演奏している。 :::::::::: こういうアプローチの場合、オーケストラがかなりうまくないと、面白くならない。あいにくと、オーケストラの魅力が今ひとつ。 アンサンブルの精度はそれなりに高いけれど、緊張感は全体的に緩め。色彩が豊かということもなく、スリリングだったり軽快ということもなく、パワフルということもなく。全体におとなしくて、やや平板に聴こえる。 たとえば、多彩に展開する第二楽章後半にしても、オーケストラの表情そのものに魅せられる瞬間は無かった。

ダニエーレ・ガッティによる、ベルリオーズの幻想交響曲

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ダニエーレ・ガッティ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。2016年ライブ録音。 ガッティは、2016年9月にロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の第7代首席指揮者に就任。その半年ほど前のライブ録音。 ガッティは、バイロイト音楽祭での『パルジファル』の放送音源を聴いたことがある。 ただでさえ長大な『パルジファル』を、遅いテンポで、コッテリと仕上げていた。そのときは、食傷した。 :::::::::: コッテリとした音楽は、この音源でも共通している。これがこの指揮者のテイストのようだ。 フレーズを深く息づかせているから、遅めのテンポに必然性はある。 もともと、このオーケストラ(コンサートホール?)の持ち味の一つが豊かな響きだから、ディテールの表現を浮き立たせるのに、ふさわしいテンポと感じられる。 作り込まれた濃い表現。入念に艶めかせ、しなを作る。とりわけ、高弦のしなやかさが印象的。 そこにはガッティの嗜好が色濃く反映されていて、常に濃厚な空気が立ち込めている。 曲調の変化にかかわらず、演奏の持つ佇まいは一定しているというか、どちらかというと変化は乏しい。 :::::::::: 第2楽章のしなやかな軽快感は心地よい。 第3楽章は、ややもたれ気味だけど、聴き応えは大きい。この演奏の山場と言えそう。 それに続く、第4、5楽章は、はじけないどころか、コッテリ艶やかに塗りたくられた。 楽曲の味わいが、指揮者の美意識で覆いつくされたような印象。 指揮者の確固たるスタイルと、それを実現できる力量は確かなものだけど、演奏者のエゴが強く出ているので、聴き手を選びそう。

シェリング、ハイティンクによるブラームスのヴァイオリン協奏曲

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ヘンリク・シェリングのヴァイオリン独奏、ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団。1973年のセッション録音。 シェリングの、この協奏曲のセッション録音は、モントゥーとの協演(1958年)、ドラティとの協演(1962年)の2つがある。他に、クーベリックとのライブ録音(1967年)があるようだ。 ここでとり上げている、ハイティンクとの協演盤は、シェリング54歳の録音。ソリストとして、若くはないが、耄碌するほどでもない、という微妙な年齢。 :::::::::: この音源は、シェリングに焦点を当てると、彼の最善ではないかもしれない。端正で品位があるけれど、軽めで淡白。 練られていて心地よいけれど、聴いていてテンションが上がる演奏ではない。 一方のハイティンクは録音当時44歳。1980年代に入って風格を増すけれど、この録音の頃は、まだ押し出しが弱い。 特にこの音源では、名ヴァイオリニストとの共演ということもあってか、良くも悪くもお行儀よく振る舞っている。 :::::::::: 老成の気配が漂い始めたシェリングに、若輩ゆえの押しの弱さがあるハイティンクと、個々に聴くと、この二人の最善の姿ではないかもしれない。 しかし、この組み合わせが、絶妙な味わいを生み出している。 古き良き欧州の香り、みたいなものが色濃く漂ってくる。演奏自体は軽めのタッチだけど、その根底に練り込まれた技と美意識を感じる。 :::::::::: かつては1980年より前のハイティンクの音源を軽視していたけれど、最近は、好みが逆転している。巨匠風の空気をまとう前のハイティンクの方が好ましい。 力のあるオーケストラと、ポテンシャルは高いけれど余計なことをしない指揮者の組み合わせって、しっくりくる。 ここでの伴奏は、自己主張控えめだけど、楽曲を整ったフォルムで描き出しつつ、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の持ち味を引き出して、品良く、耳あたり良く、端整に仕上げている。

シャハム、アバドによるブラームスのヴァイオリン協奏曲

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ギル・シャハムのヴァイオリン独奏、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。 2000年ライブ録音。 シャハム29歳、アバド65歳の録音。若手俊英と巨匠指揮者の共演という図式。 2人の偉才と、名門オーケストラの組み合わせというで、演奏の品質は、予想通り高い。 そして、シャハムとアバドの方向性は、だいたい一致しているように聴こえる。 技術的にも、音楽としても、クォリティの高い演奏で、後は好き嫌いを語るしかなさそう。 :::::::::: シャハムのヴァイオリンは、伸びやかかつ艶やか。 線はスッキリとして、スムーズに流れるので、粘っこさは感じないけれど、聴かせる場面ではテンポを落として歌い上げる。 繊細な表現が随所に聴かれるけれど、神経質さや線の細さは感じない。屈託なくヴァイオリンの魅力を振りまく。 厳しさとか激しさの表現は控えめというか、良くも悪くも、力みを感じさせない。あくまでも、伸び伸びとした明朗さの範囲の中で、表情が形作られている。 明朗な方向性でのこの協奏曲の演奏をいくつか聴いてきたけれど、中でもすんなりと楽しめた。 技術的には高度だけど、やっている音楽そのものはシンプルで親しみやすい。楽曲への共感の形が素直。 :::::::::: アバドの管弦楽は、シャハムにとって、おそらく理想的。 明るくて流麗な音楽の作り方が、シャハムのやり方と一致している。 ホールの音響特性ゆえか、豊かに広がるサウンドだけど、管弦楽そのものは引き締まっていて、ヴァイオリン独奏と親密なアンサンブルをやっている。 というか、ホールのファットな音響特性が、管弦楽をやや邪魔しているように聴こえる。 陰影のような感触は皆無で、こういう味付けで、ブラームスの交響曲を聴きたいとは思わないけれど・・・

クライバーによるビゼー歌劇『カルメン』

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1978年のライブ映像。 カルロス・クライバー指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団、エレーナ・オブラスツォワ、プラシド・ドミンゴ他。 オペラを映像で楽しむことは、滅多にない。手持ちのメディアもほとんどない。 そもそも、歌詞の内容とか斟酌しないで聴いている。 まともにオペラを楽しめる目や耳を持っていない。そういう前提の記事。 :::::::::: カルロス・クライバーが、何回くらい『カルメン』を指揮したかは知らないけれど、クライバーの『カルメン』と言うと、この音源になるようだ。 非凡な指揮ぶりで、この曲の好きな演奏の一つではあるけれど、カルロス・クライバーの本領発揮とは感じられない。 いや、本領は発揮しているのかもしれないけれど、全体的に流しながら、要所要所を締めていく、というやり方。 こういうモードの演奏としては、出来は悪くないけれど、やはり、クライバーこだわりのカルメンも聴いてみたい。 :::::::::: 録音のせいなのか、オーケストラのサウンドもいまいち。鮮明さとかは問題ないけれど、低い音がどうも鈍い。 歌唱を聴く分には問題ないけれど、クライバーの音楽を楽しもうとすると、物足りない。 状態の良い映像・音源が残っているだけでも、喜ばしくはあるけれど。 :::::::::: 歌手では、ドミンゴが、声だけでも映像込みでも絵になる、稀有の存在であることを確認。

キーシンによるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番

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エフゲニー・キーシンのピアノ、ワレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団。1988年のセッション録音。 キーシンが16歳の頃の録音。 個人的には、ラフマニノフのピアノ協奏曲の中では、第3番の存在感が圧倒的。2番の協奏曲には、これといった思い入れはなく、特別に愛聴する音源もない。 ただ、2番第一楽章の展開部はスリリングで、この曲を聴く動機の半分以上は、ここを聴くためだったりする。 :::::::::: キーシンのピアノは、巧くて、タッチが綺麗で、自然なスケール感を作り出している。緩急の幅のある表現だけど、音楽の展開に即していて、一切の無理を感じさせない。 レベルの高いピアノだけど、ハッとさせられるような技芸みたいなものは乏しいかも。 この音源の魅力は、キーシン個人のピアノより、ピアノとオーケストラが一体として作り上げる、バランスの良い作品像だろうか。 :::::::::: この演奏から、ゲルギエフが出しゃばっている印象を受けないけれど、キーシンのピアノが薄味な分、ゲルギエフのうまみが前に出ているように聴こえる。 どちらが主導しているのかは判断できないけれど、ゲルギエフが、この曲の俗っぽさを、品良く、恰幅よく聴かせて、キーシンのクリアで華やかなピアノが、 さらに彩度とか鮮度を高めている。 楽曲を楽しむという目的には、好適な音源だと思う。

モッフォ、マゼールによるビゼー歌劇『カルメン』

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ロリン・マゼール指揮のベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団と合唱団。 主な歌手は、アンナ・モッフォ、フランコ・コレッリ、ピエロ・カプッチッリとか。 1970年のセッション録音。 数あるこの歌劇の音源の、一部しか聴いていないけれど、ステレオ録音では、もっともしっくりくる。 :::::::::: 録音当時40歳くらいだったマゼールが、ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団から、カラフルで、鮮烈で、キレのある音楽を引き出している。小気味よくて爽快。 引き締まったサウンドで、各楽器から生々しい表情を引き出している。でも、軽快かつ俊敏に展開させるので、とげとげしさとか息苦しさは感じない。 どちらかというと軽めのタッチで、ミュージカル調。鑑賞するというより、楽な気持ちで楽しめる演奏。そういう方向で成功していると思う。 それでも、エンディングは、もう少し厳しくにやってほしかったけれど・・・ :::::::::: 歌手たちも、それぞれの役柄のキャラを強く打ち出している。アンサンブルの調和より、お芝居っぽさが前に出ている。 おそらく、モッフォとコレッリの組み合わせは、歌声も良いけれど、映像とともに鑑賞する方が、より威力を発揮するのでしょうね。

小林研一郎によるベートーヴェン交響曲第5番

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小林研一郎指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団。2010年のライブ録音。 交響曲全集の1つ。 この指揮者を聴くのは初めて。 厚くて激しい演奏をする指揮者というイメージを持っていたけれど、この音源に関しては、熱さや激しさを強調するような演奏ではない。 :::::::::: 描き出される作品像は、現代オーケストラの厚い響きを活かしつつ、キビキビとして、勢いがある。 ただ、勢いに任せることはなくて、造形は手堅く整っている。場面ごとの、前に出す音、後ろに引く音の切りかえも、スムーズで自然に聴こえる。 煽るようなところは無いけれど、ボルテージは一定以上のレベルで一貫していて、小気味が良い。 :::::::::: ただ、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団という、かなりのポテンシャルを持つであろうオーケストラの合奏力を、どこまで引き出せているのだろう。 そもそも、わたしは、最近のチェコ・フィルを知らない。アンチェルとかノイマンの頃のイメージしかなく、あの頃はポテンシャルの高いオーケストラだったと思う。 現在も、当時と同等か、近い水準を保っているとしたら、この音源の合奏は物足りない。 悪くはないけれど、響きの肌理を楽しめるほどの純度・精度は無い。聴き進めるにつれて、表情の凹凸の乏しさが気になってくる。これは指揮者の腕によるものだろう。 小気味良い演奏なので、気持ちよく聴けるけれど、ハッとさせられるような場面とか、後になって反芻されるような場面は無い。 観客席で聴いたら楽しめそうだけど、音源として繰り返し聴くには弱い。

バレンボイムによるブラームスのピアノ協奏曲第1番(1967)

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ダニエル・バレンボイムのピアノ、ジョン・バルビローリ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団。1967年のセッション録音。 バレンボイム27歳の録音。 ところで、EMIというと、音質に不満を感じることが多いけれど、1960年代後半は、特に酷かった時期の一つ。 この音源も例外ではなく、響きが塊状になっていて濁りがある。 :::::::::: バレンボイムは、激しい表現を遠ざけて、じっくりと丹念に明晰に弾いている。 知的にコントロールされているけれど、方向性としては、楽曲の抒情的な面を、彫り深く浮き彫りにしている感じ。 たとえば、第一楽章のトリルの不協和音を、これだけ念を押すように響かせる演奏は、珍しいと思う。 第二楽章は、腰を据えたスケールの大きな表現で、聴き応えを感じた。粘っこさは好き嫌いが分かれるかもだが、バレンボイム流が曲調ともっとも合致しているように聴こえる。 両端楽章では、丹念さの反面、壮烈さとか、畳みかける勢いなどは、ほぼ失われている。 また、バルビローリの管弦楽が、起伏のある幅広い表現力を聴かせるのに比べると、バレンボイムの演奏は頭でっかちに聴こえる。 終楽章の、クライマックスに向けての追い込みの場面でも、それなりに力強いけれど、珍しいくらいにワクワクしない。 :::::::::: バレンボイムの描く作品像にすっかり賛同できるわけではないし、いくぶん堅さを感じさせられる。でも、音のつながり方、重ね方のニュアンスには、耳をそばだてさせられる場面が多々ある。 自分のやりたい音楽があって、それにシリアスに向き合っていることが伝わってくる。野心的であり、ひたむきでもある。そして、自分の音楽を表現できる技術センスがある。 そういう種類の聴き応えはある。 :::::::::: バルビローリは余裕をもって、バレンボイムを盛り立てている。 この演奏では、取り立てて自己主張をしてないように聴こえるけれど、この指揮者の、アンサンブルを親密に響かせ、音楽の空気感を自在に操る手腕は、ここでも感じ取ることができる。 明るサウンドは、ブラームスっぽくないかもだが、これはオーケストラの持ち味なので、しかたがないだろう。

バレンボイムによるブラームスのピアノ協奏曲第1番(2014)

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ダニエル・バレンボイムのピアノ独奏、グスターボ・ドゥダメル指揮シュターツカペレ・ベルリンの管弦楽。2014年のライブ録音。 録音当時、バレンボイムは71歳。指揮者としてはともかく、ピアニストとしては、衰えがでそうな年齢。 老巨匠の枯れた味わいには興味がないけれど、当時33歳のドュダメルとの協演に興味を感じて聴いてみた。 :::::::::: バレンボイムのピアノは、ゆったりとして、軽い打鍵で、キレは無いけれど、タッチの使い分けは丁寧で適確。細やかにニュアンスを描き分けている。 練れた、円熟した演奏だけど、良くも悪くも手慣れた感じが濃すぎて、ひたむきさは感じられない。むしろ、余裕があり過ぎて、小手先の芸と感じられる場面もある。 ピアニストとしてのバレンボイムが健在であることは、この演奏を通して確認できるけれど、それ以上の何かが、この演奏にあるかというと・・・ :::::::::: ドュダメルの指揮ぶりは、バレンボイムに合わせているような印象。 相手のバレンボイムは巨匠だし、オーケストラの総監督でもあるわけで、外様であるドュダメルの立場でそうなるのは、しかたがないのかも。 いずれにしても、巨匠と若手が火花を散らす的なノリとは正反対の、円満な演奏。 第一楽章の冒頭も、激しさや重厚感は控えめ。落ち着いていて、丁寧なアンサンブル。 ピアノ独奏のサポートに徹しつつ、洗練されたオーケストラのさばきを聴かせる。 彼としてはやるべき仕事をきっちりこなしているけど、有能な若手の音楽性を楽しむ、みたいな体験にはならなかった。

ブレハッチによるショパン前奏曲全集

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ラファウ・ブレハッチのピアノ。2007年のセッション録音。 2005年ショパン国際ピアノ・コンクールで優勝した、ポーランド人ピアニスト。 1985年生まれの若手。 :::::::::: 理知的なスタンス。 響きの量感は控えめで、音の一粒一粒を際立たせて、それらのバランスを精妙にコントロールしている。 微弱音~やや厚めの響き、の幅で演奏されているけれど、その幅を最大限有効活用して、彫りの深い表情を作り出している。 落ち着いた、まっとうな作品解釈だけど、耳をそばだてさせられる。 楽譜に記された音符を、メインのフレーズとサブのフレーズに整理するのではなく、その重ね方にこだわり抜いて、多彩なニュアンスを生み出している。 繊細さを基調としたショパン演奏に、賛否はあるかもしれないけれど。 :::::::::: 変わったことをやっているわけではないけれど、ある程度定説化された作品像を、自分の技術と感性を通して再現しましたというような、うまいけど予定調和的な演奏とは一線を画している。 あらためてショパンの作品書法に意識を向けさせられた。 こだわりの深さが、そのまま演奏に反映されている感じで面白い。

スクロヴァチェフスキによるブルックナー:交響曲第5番(1996)

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スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮ザールブリュッケン放送交響楽団。1996年のセッション録音。 :::::::::: たぶん、原因は指揮者にあると思うけれど、個々のパートを鳴らしわけるところまではできているのだが、それらのバランスを細かく調整して、一体のものとして織り上げていく、というところまでは、及んでいない。 そのために、サウンドイメージが常にもやっとしている。聴かせどころとなるべき場面のいくつもが、今一つ冴えない。 演奏の格は、1~2段落ちる印象。 ただし、曲がベートーヴェンとかブラームスだっからともかく、ブルックナーだと何とかなってしまう。 ブルックナーの音楽では、アンサンブルを織り上げる細やかさより、個々のフレーズの雄弁さとか、響きの量感のコントロールなんかの方が、らしさに貢献しがちだから。 この演奏では、息の長い歌い回しとか、堂々とした造形とか、恰幅の良い響きとかは、おそらくブルックナーに合っている。 :::::::::: スクロヴァチェフスキの、オーケストラをかき鳴らす力量には物足りなさを感じるけれど、楽曲の把握には手ごたえを感じる。 特に、終楽章では、巨大な音楽が確かな足取りで構築されていく感覚が、しっかりと伝わってきた。 もともと、この指揮者には、洗練された演出は無理っぽいけれど、その分、よそ見しないで、この楽章の造形美を納得させてくれる。 ちなみに、終楽章のフィナーレに、ちょっとしたサプライズ(改変)がある。

マタチッチによるチャイコフスキー交響曲第5番(1960)

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ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団。1960年のセッション録音。 マタチッチ(1899-1985)はクロアチア出身の指揮者。 NHK交響楽団との録音が複数リリースされている。日本と縁のあった指揮者のようだが、個人的には、そんなに聴いていない。 :::::::::: 引き締まって、推進力のある、辛口の演奏。 オーケストラの持ち味もあるだろうけど、響きの厚みはそんなになくて、内声部が明瞭に聴こえる。木管部がなかなか雄弁。 録音の品質は良くないけれど、細かい音は良く聴こえるし、その一つ一つに意欲的に表情が付けられている。指揮者の統率振りはよく伝わってくる。 ただし、各声部のバランスとか連動のさせ方とかは、ぶっきらぼうな感じ。そのため、サウンドイメージがあいまいで、響きの色合いの変化は乏しい。 :::::::::: 終楽章は、金管を心持強めに出して、切れ味とか迫力を演出している。チェコ・フィルの金管奏者たちはうまい。 展開部で極端にテンポを落とす場面がある。ここでテンポを落とすのは、他でも聴いたことがあるけど、ここまでのブレーキは珍しいような気がする。 :::::::::: 悪い演奏ではないけれど、録音の音質が思わしくなく、それを我慢して聴くほどのものではないかもしれない。

マタチッチによるブルックナー交響曲第5番(1967)

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ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団。1967年のセッション録音。 とりあえず、この演奏には、楽譜の改変とか版の問題がある。 ブルックナーの改訂版に関心が無くても、というか、むしろ関心がないほど、聴きなれないものに、単純に違和感を感じてしまう。 :::::::::: マタチッチの深い呼吸は、ブルックナーに似つかわしく感じる。大きな構え、深い息遣いで、一つ一つのフレーズにニュアンスを込め、響きの綾を存分に引き出す。 この交響曲から引き出しうる演奏効果を、じっくり吟味された跡が随所に感じられる。そういう意味で、練られた表現を満喫できる。 :::::::::: 第5交響曲は、堅固な構成美を前面に出すアプローチも可能だと思うし、個人的には、そうする方が、作曲者の構想に近いような気がする。 ただ、敬虔な雰囲気とか、息の長いフレーズとかがふんだんにある作品なので、後期の交響曲のように演奏しても、それはそれで演奏効果が上がるし、実際そういうアプローチの演奏は多い。 マタチッチもそっち系で、幻想性とかロマン性を引き出す方向で聴かせる。 :::::::::: チェコ・フィルハーモニー管弦楽団は、金管が軽くて伸びやか。低弦は広がりはあるけれど、実体感薄めでうねらない。木管には湿り気があって、抒情的な風合いが強い。 要するに、透明感、繊細感、抒情美が際立つ。スケール感はあるけれど、聴き手を圧倒したり包み込むような質なサウンドではない。 マタチッチは、そういうオーケストラの持ち味を肯定的に活かしていて、そのことが演奏全体の色調に大きく影響している。

ナッシュ・アンサンブルによるブラームスの弦楽五重奏曲第2番

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ナッシュ・アンサンブルの演奏。2008年のセッション録音。 ナッシュ・アンサンブルは、ロンドンにあるウィグモア・ホールを活動拠点とする、室内楽アンサンブルらしい。メンバーは11人(この記事作成時点)で、ピアニストやハープ奏者なんかも含まれている。 もちろん、この録音に参加しているのは、弦のメンバーだけ。 :::::::::: 線の一つ一つを明確にして、それらが親密に絡み合う。サウンドバランスは、低音やや浅めのスッキリ系。混濁感の無いクリアな響きのためのバランスなのだろう。 精度の高いアンサンブルだけど、静的に演奏して、隙なく仕上げていくという方向性ではない。各奏者が積極的に表現しながら、まとまりを作っていく感じで、好ましい。 アンサンブル全体として、呼吸感があって、リズムには生気がある。精度を一定以上に保ちつつ、生き生きとして、スケール豊かな表現を展開している。 静と動の変化を入念に際立たせて、それぞれの楽章を彫りの深く描き上げている。こちらの曲に対するイメージより、各楽章が立派で格調高く響くような気がする。 :::::::::: ただ、第一楽章はもう一息だろうか。 これだけのポテンシャルがある団体なので、もう少しテンションを下げて安全運転をしたら、完成度はさらに上がったと思う。 しかし、ここでのナッシュ・アンサンブルは、活気と流動感を前面に出す道を選んでいる。作品の解釈としては、賛辞を贈りたいけれど、勢いの反面、細やかなコンビネーションの妙味は後退している。 そういうところが、この曲では大事なので、残念なところ。 第二楽章以降は、洗練されたスマートな質感に違和感を感じる向きがあるかもしれない。ただ、晩年のブラームスの書法がいかに洗練されたものであるかを、実感できる。

ワイセンベルクによるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番

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アレクシス・ワイセンベルクのピアノ、ジョルジュ・プレートル指揮シカゴ交響楽団。1968年のセッション録音。 メジャーレーベルによる60年代後半の録音にしては音が悪い。ただ、ワイセンベルクがやっていることはクッキリと聴こえてくる。 ワイセンベルクは、1979年にこの曲を、バーンスタインと再録音している。 :::::::::: ワイセンベルクのピアノは、タッチのニュアンスは細やかだし、息遣いも伝わってくる。彼自身の感性を色濃く映し出しているし、楽曲の抒情性に光を当てている。 その一方、響きは硬質で輪郭がクッキリ。重い音でこそないけれど強固。 そして、高精度で強靭な指の動きやタッチのコントロールに圧倒される。 アクロバティックな指の動きだけど、軽やかさは感じない。一途で強靭。 この抒情性と強靭さが、調和しているというより、せめぎ合っている感じ。ときに抒情性が上回るけれど、次の瞬間には強靭さがそれを振り払う、みたいなせめぎ合いが繰り返される。 両端楽章はそういうところが面白くもあるけれど、第2楽章あたりは、抒情的な感性とメカニカルな強さ・キレが喧嘩しているようにも聴こえる。 どこか異形ではあるし、好んで聴くものではないけれど、この協奏曲の特別な演奏の一つ。 :::::::::: ピアノ重視の録音のせいだろうが、管弦楽は広がりが乏しく後方に聴こえる。露骨にピアノが主役の、音の録り方。 こういう扱いなので、プレートルの演奏について、とやかく言える感じではない。

ブレハッチによるショパンのピアノ協奏曲第1番

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ラファウ・ブレハッチのピアノ、イェジー・セムコフ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。 2009年のライブ録音。 ブレハッチは1985年ポーランド出身のピアニスト。2005年にショパン国際ピアノコンクールで優勝。ツィマーマン以来30年ぶりのポーランド人優勝者だったらしい。 セムコフは、ポーランド出身のフランスの指揮者。1928年生まれなので、録音の時点で80歳を超える大ベテラン。 :::::::::: ブレハッチが聴かせる作品像自体はごく標準的。 情緒的な表現にあまり入り込まないで、繊細・精妙なタッチで、楽曲の書法を鮮やかに描き出す。 ニュアンスの彫りは深くて、音の粒立ちは良好。クリスタルな凛とした響きではなく、ちょっと湿り気を帯びた音で、耳のあたりは柔らかい。 聴いていて、気分が高まってくるようなところはないけれど、精妙でみずみずしい音楽が心地よい。 :::::::::: ピアノは、そんなに大きな音を出しているように聴こえないけれど、細かなニュアンスまで伝わってくる。 録音の加減もあるのだろうけど、節度ある伴奏も影響していそう。 柔らかな響きでピアノを包み込むよう。一歩引いているようだけど、かと言って不足を感じさせることもなく、心得た振る舞い。 これを聴いて、セムコフの他の演奏も聴いてみたいという気持ちにはならないけれど、ブレハッチの伴奏としては好ましい。

アルゲリッチによるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番

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マルタ・アルゲリッチのピアノ、リッカルド・シャイー指揮ベルリン放送交響楽団の演奏。1982年のライブ録音。 :::::::::: アルゲリッチのピアノは、指の運動能力は凄まじいけれど、打鍵は中軽量級。 音の粒立ちを重視して、音のダブつきを排除しているせいもあるのだろうけど、響きの量感は薄い。 スリリングだけど、パワフルという印象ではない。 :::::::::: 畳みかけるテンポ感と多彩なニュアンスがあいまって、一つ一つのフレーズを、音の線的な連なりというより、響きの揺らぎとかきらめきのように表現している。 そのために、他の演奏とは違う曲のように聴こえる。ピアノを語るように演奏している。 超絶の指さばきが、音楽的な持ち味と不可分に結びついていて、演奏様式としての次元の高さを感じる。 :::::::::: ライブ録音とは言え、燃え上がるような演奏ではない。集中して的確に指先をコントロールして、自分の表現を着実に展開している。 こういう演奏様式だと、ミスタッチを恐れず、天衣無縫にやってくれた方が、より面白くなりそうだけど、難曲の正規録音だから、そうもいかないのだろうか。 全曲通して非凡ではあるけれど、アルゲリッチの持ち味をもっとも好ましく感じたのは第2楽章。 残る2つの楽章も見事だけど、打鍵の軽さのせいで、凄みのようなものは感じられない。 :::::::::: この協奏曲は管弦楽が厚め。わきまえない指揮者だと、アルゲリッチの細やかな表現を邪魔しないか心配になるけれど、シャイーは危なげない。 明朗でやや甘い響きは、アルゲリッチのピアノとは好対照。でも、ピアノをエスコートしつつ、マイルドで優美なトーンを加味していて、なかなかいい感じ。

チェリビダッケによるフランク交響曲

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チェリビダッケ指揮スウェーデン放送交響楽団。1967年のライブ録音。 チェリビダッケの、サウンドの趣味と望む響きをオーケストラから引き出す手腕には、信頼を置いている。 しかし、自分の美意識とインスピレーションで、楽曲を再創造したいとでもいうような、彼の衝動はときに疎ましい。かなり作為的で、安っぽく感じられることが多いから。 そして、そんな再創造への衝動は、晩年になるほど濃くなったような・・・ その意味で、60~70年代の音源は聴けるものが多い、という印象だったけど、このフランクの交響曲は、ハズレだった。 :::::::::: 透明度が高いスッキリ系のサウンドと、粘りまくる語り口の組み合わせが、この音源の面白さというところか。 これだけ粘らせるなら、うねりを感じさせるような重層的な響きが欲しいところだけど、それにしてはオーケストラのサウンドが薄い。 たぶん、チェリビダッケのやりたいことに完全に音にするには、クリアな響きとパワーを兼ね備えたオーケストラが必要。 この音源では、オーケストラのポテンシャルが、指揮者のやりたいことに追い付けていないのかもしれない。 :::::::::: とは言え、オーケストラの響きに軸足を置いて聴く限り、チェリビダッケが引き出している響きは傑出している。 この曲の渋いオーケストレーションを、生演奏で、こんなにも晴朗に響かせられることに感心。 単純に、オーケストラの持ち味とかホールの音響特性とかではないだろう。この指揮者は、異なるオーケストラから、自分の望むサウンドを引き出せる耳の良さと統率力を持っている、と思う。

フルニエ、シェルヘンによるドヴォルザークのチェロ協奏曲

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ピエール・フルニエのチェロ独奏、ヘルマン・シェルヘン指揮スイス・イタリア語放送管弦楽団。1962年のライブ録音。 モノラルだけど、明瞭で聴きやすい。。 ちなみにフルニエは、この1年前に、セル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と、同曲をセッション録音している。 :::::::::: フルニエの独奏に限ると、聴いたことのある彼の録音の中では(たぶん4つくらい)、もっとも好印象。 この人は、"チェロの貴公子"と呼ばれたくらい、品の良い演奏スタイルだけど、かと言って情緒的な要素を削いでしまうことはない。 フレージングとかリズムの刻みとかは、端正だけど、響きの作り方はけっこう多彩で、味がある。 おそろく、そうしたバランス感覚の絶妙さが、この人の魅力だと思う。 この音源では、フルニエのそういう良さを満喫できる。生演奏とは言え、技巧は安定しているし、程良い熱気が加味されている。 そして、シェルヘンとの組み合わせが奏功している。 :::::::::: チェロという楽器は、音色は渋いし音量も控えめ。オーケストラと協演すると、とかく埋もれがち。 フルニエの音源に限らず、あるいは最新の音源であっても、厚ぼったい管弦楽にストレスを覚えることがしばしばある。 その点、シェルヘンの伴奏は、程良い。 乾いた張りのある響きで、力感みなぎる管弦楽だけど、弦のボリュームを薄くして、内声部を際立たせるサウンドバランス。 管弦楽の全体の響きは薄くなるけれど、その分フルニエのやっていることは明瞭に聴こえる。 オーケストラの響きは薄目だけど、音楽としてはけっこう雄弁。盛り上がる箇所では、金管を前に出して刺激的な表情を作るけれど、押すときと引くタイミングを心得ていて、ソリストが活躍する場面では、しっかりとサポート。 オーケストラの各パートを、ソリストに巧みに絡ませる手並みに、うまさを感じる。 個人的に、シェルヘンの作り出す乾いたサウンドは、好みではないけれど、うるおい成分はフルニエのチェロが補っていて、協演として好ましく聴いた。

カルミニョーラによる、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番(1997年)

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ジュリアーノ・カルミニョーラのヴァイオリン独奏、伴奏はカルロ・デ・マルティーニ指揮のイル・クァルテットーネ。 1997年のセッション録音。全集から。  カルミニョーラは、10年後に、クラウディオ・アバドと組んで再録音している。別記事にて採り上げている。 :::::::::: カルミニョーラ中心に見ると、新録音より、こちらの方がしっくりくる。 ヴァイオリン・ソロの出来の違いではなく、伴奏との相性の違い。 カルミニョーラのソロは、いずれにしても、線が細くて、流暢で、軽やかで、細やかだけど陰影は薄い。バロック期に量産された、イタリアの作曲家たちによる合奏協奏曲あたりを連想させるテイスト。 アバドはそういうのに付き合っていなかったけれど、こちらの音源のマルティーニ指揮イル・クァルテットーネの方は、カルミニョーラと同じ方向性。 型にはまったテイストなので、刺激的な要素は乏しいけれど、演奏様式としての納得感は高い。 カルミニョーラを味わうなら、アバドとの協演ではなく、こちらだろう。 :::::::::: 良くも悪くも流暢にスイスイと流れる演奏で、モーツァルト演奏としては好みが分かれそう。 伝統的な名演奏と比べると、浅薄に聴こえなくもない。 しかし、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲が、この演奏で聴けるような側面を持っていないとは言い切れない。